一般的に、587年の蘇我氏と物部氏の戦いは仏教の導入をめぐる戦いとされるが、この戦いの背景には、物部守屋が支援していた穴穂部皇子の横暴があった。
穴穂部皇子は、敏達天皇が亡くなった時、殯宮に押し行って炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとしたり、自分こそが王になるべきだと独断的な行動にでて、それを物部守屋が支援し、蘇我馬子は、それに反対する立場にあった。
崇仏派の蘇我馬子は、仏の前に全てが平等であるとする仏教の理念は、豪族たちが自らの氏神を掲げて争う状況を調和に導く力があると考えていた。
これは、日本が官僚統治手法を見習っていた北魏において、すでに実践されていたことだった。北魏では、統治者である北方民族の鮮卑族が、多数の異民族をまとめるために仏教政策をとり、雲岡、龍門の石窟などを築いた。
蘇我馬子の仏教に対する心構えは、彼の父、蘇我稲目から受け継いだものだった。
『日本書紀』では、欽明天皇の時代(仏教伝来年:552年説)、百済の聖明王から仏像・経典が献上されたと記されている。
この時代の大臣(おおおみ)として政権の要にいたのが蘇我稲目だった。
「蘇我大臣稲目、仏像を請い受けて、家に安置して礼拝す。」と記録が残っている。
通説では、蘇我稲目は、二人の娘(堅塩媛と小姉君)を欽明天皇に嫁がせることで政権内で実力者になったとされるが、娘を嫁がせることで実力者になれるのであれば、誰でもそうしようとするはずであり、欽明天皇自身が、この二人の娘の母親の実家勢力の力を必要としたと考えた方が自然だ。
蘇我氏と物部氏(穴穂部皇子を支援)の戦いは、小姉君の息子である穴穂部皇子が、堅塩媛の娘である炊屋姫尊(後の推古天皇)を犯そうとする暴挙が、戦いの前にあった。この行為には、堅塩媛と小姉君の両方の背後勢力を自分のものにしようとする穴穂部皇子の政治的な意図があったはずで、女性に対する単なる性暴力ではない。
堅塩媛と小姉君を皇妃とした欽明天皇の墓とされるのが、飛鳥の丸山古墳だが、この古墳は、全長約320m、大きさは全国6番目、奈良県最大規模の前方後円墳だ。
飛鳥の隅々まで見下ろすように作られた巨大な欽明天皇陵。
横穴式石室は、王は死んでも神にならず、黄泉の国に旅立つ。石室は、扉の開け閉めで中に入ることはできて、妻や子供など身内が亡くなった時、その遺骸を同じ石室内に収めることがなされた。つまり、王は、あくまでも地上の権力者であり、死んだ後も影響を及ぼすものではない。
全国有数の巨大古墳でありながら、例外的に横穴式石室で、しかも石室の大きさが日本の歴史上最大という欽明天皇の埋葬施設は、欽明天皇が、地上の権力者として他に類例のない力をもっていたことを示している。
さらに、この時代、100mを超える古墳は、全国では関東と九州、そして出雲や吉備に見られるだけで、それ以外は、近畿も含めて他になく、こういう状況こそ、中央集権的な世界の確立と言えるだろう。
日本各地に大きな前方後円墳が数多く築かれた時代は、ヤマト王権の勢力が全国に及んでいたわけではなく、中世の戦国時代に全国各地に似たような城が数多く築かれていた時と同じように、むしろ、各地の豪族が実力をしのぎあっていた状態であろう。(技術や価値観の共有はあった)
欽明天皇の時代になってはじめて、超巨大古墳が欽明天皇だけのものになったのは、豊臣秀吉が全国統一の安定化政策の一環で、自らの城を巨大化させながら、他の大名による新たな城の築城や修築を原則として禁止したのと同じだと思われる。
そして、欽明天皇と小姉君のあいだに生まれた穴穂部皇子は、自らが欽明天皇の継承者にならんと欲し、炊屋姫尊(堅塩媛の娘=後の推古天皇)を犯そうとしたわけだが、穴穂部皇子の前に王となっていたのは敏達天皇で、この天皇の母は、堅塩媛でも小姉君でもなく、石姫皇女だった。
そして敏達天皇には、同父同母の兄である箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつの おおえのみこ)がいた。この人物こそが、当初、欽明天皇の後継者だったと思われるが、552年に亡くなってしまった。死の真相はわからないが、この552年に、百済の聖明王の使者が、金銅の仏像一体と、経論数巻を献じたと『書記』にはあり、この年が、日本への仏教伝来の年ということになる。
その時、欽明天皇が、仏像を礼拝することの可否を群臣に求めたところ、物部尾輿と中臣鎌子が強く反対したため、蘇我稲目が、私邸である向原の家で仏像を祀り崇めたとされる。
『善光寺縁起』では、物部尾輿と中臣鎌子が破棄した仏像を、本田善光(信濃国出身)が拾い上げて自宅に祀ったのが、現在の善光寺本尊「一光三尊阿弥陀如来像」ということになる。
『善光寺縁起』は、後の時代の脚色である可能性も高いが、「捨てられた仏像が救いの仏として蘇る」という物語構造は、日本的な浄土教の核心=捨てられた者への救済と深く響き合い、これは、神話の中で不具の神ヒルコが流された後、西宮に上陸して恵比寿神として祀られ、とくに浄土信仰が広がった庶民と近い立場の河原者(芸能関係者)によって大切にされたという構造と重なったくる。
552年に、百済から献上された仏像や経典が何であったかはどこにも具体的に記録されていないが、この年に、欽明天皇の長男の箭田珠勝大兄皇子が亡くなった。そして、この時期は、新羅との戦いを繰り広げていた時だった。
箭田珠勝大兄皇子は、無念の死であった可能性が高く、死後の冥福を祈って、当時、新羅と攻防の最中にあった百済から仏像が献上されたとすると、その仏像は阿弥陀信仰に関するものであった可能性がある。
さらに、この仏像を祀っていたとされる蘇我稲目の「向原の家(むくはらのいへ)」が、現在の向原寺(本尊が鎌倉時代以降の阿弥陀如来像)であるが、ここは、推古天皇の豊浦宮や、日本最古の尼寺である豊浦寺が営まれたところである。
蘇我氏と物部氏の戦いの後に即位した崇峻天皇が殺害された592年、群臣に推された形で、推古天皇が、豊浦宮で即位した。この時彼女は既に39歳だった。
そして、推古天皇が、603年に小墾田宮に遷都した時に、この豊浦宮が、豊浦寺となったとされ、この寺で活動したのが尼僧の善信尼だが、彼女は、584年、11歳の時に出世したとされ、それが事実ならば、日本史上、男女初めての出家者ということになる。
この善信尼が、推古天皇の即位地である豊浦宮の場所で活動し、ここが、蘇我稲目が仏像を祀っていた向原の家であるという重なりの背景にいったい何があるのか。
稲目の向原の家は、日本の仏教信仰の起点であるゆえ、仏教政策の要になっても不思議ではないが、考えなければいけない大事なポイントは、なぜ、日本の仏教史で初めての出家者が女性で、日本における仏教信仰の起点の場所で活動し、そこが尼寺であった理由だ。
しかも、蘇我と物部の戦いなど国内が乱れた状態になった後に、39歳という高齢で、女性である推古天皇が、この同じ場所で即位した。
つまり飛鳥時代において、仏教理念と、女性が備える特性が、間違いなく重ねられている。
飛鳥時代の仏教政策が政治理念と化したのが、「和をもって尊し」というビジョンであり、このビジョンは、すでに蘇我稲目が”向原の家=豊浦の宮(推古天皇の即位した場所)=豊浦寺(尼寺)”で祀っていた仏像にこめられていたものであり、そのビジョンは、女性の特性とも深く関わっていた。
これは、奈良時代初期、斑鳩の法隆寺の復興を陰で支えていた県犬養三千代の祈りにもつながることだが、阿弥陀如来への信仰によって極楽浄土に往生できるという浄土信仰の教えは、性別や身分を問わず救われるという普遍的な救済観が説かれていた。
一言で仏教といえども多種多彩で、「五障三従」という縛りで女性を差別・区別するものが多かった。
五障というのは、女性は梵天という最高神の位につけない、帝釈天という天界の支配者になれない、欲界の魔王になれない、仏(如来)になることができない、さらに、世界を治める理想的な王になれないというものだ。
三従は、儒教に由来するもので、少女の間は父親に従うべし、結婚後は夫に従うべし、夫亡き後は息子に従うべしというものだ。これがゆえに、多くの仏教教団において、比丘尼(尼僧)は比丘(僧)よりも多くの戒律を課され、教団内でも上下関係が存在していた。
しかし、飛鳥時代から奈良時代にかけて、蘇我稲目が仏像を祀った向原の家(豊浦宮)で即位した推古天皇を起点に、皇極天皇(後に重祚して斉明天皇)、持統天皇、元明天皇(県犬養三千代への信頼が厚かった)、元明天皇の娘の元正天皇、孝謙天皇(後に重祚して称徳天皇)と、男性天皇よりも長い期間、女性天皇がまつりごとの中心にいた。
これは、「女性は世界を治める理想的な王になれない」という五障に明らかに反しており、歴史の専門家のなかで共有されている蘇我氏や藤原氏が操りやすいように近親の女性を天皇にしたなどと単純化して、わかったつもりになって処理できる話ではない。
平安時代以降、中世にかけて、女性の成仏を保証する「阿弥陀信仰」が盛んになり、「五障」を乗り越える信仰的運動が広がっていくが、「和をもって尊し」というビジョンで国を一つにまとめていこうとした飛鳥時代において、日本初の出家者が尼僧の善真尼であり、奈良時代の初期、律令制を整えていく段階の困難な時期に、県犬養三千代が、斑鳩の法隆寺の復興を通じて阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩と聖徳太子を重ね合わせる聖徳太子信仰の基礎を築いたという事実を踏まえると、古代における女性の重要な役割が浮かび上がってくる。
これは、おそらく、飛鳥時代よりも遥かなる以前、巫女の霊力を中心にして国を一つにまとめていた時代に遡るスピリットだ。
魏志倭人伝にも、こう書かれている。
「その国(倭国)は、もともとは男が王になっていた。そうした状態が70~80年ほど続いたが、倭国は乱れて互いに攻め合い、戦乱の時代が長く続いた。そこで人々は、ともに、一人の女性を王として立てた。その名は卑弥呼という。」
・・・・
「卑弥呼が死ぬと、大きな墓を作った。直径は100歩(およそ100メートル以上)もあり、奴婢(召使いや下僕)100人余りが殉葬された。その後、男王を立てたが、国中はこれに服さず、再び互いに誅殺(殺し合い)し合う事態となった。そこで再び卑弥呼の一族の女子、13歳の壹與(いよ、あるいは台与)を王に立てると、国は安定した。」
・・・・
「乃共立一女子為王」と書かれているように、卑弥呼の時代、合議によって女性を王として立てたのだった。
これは伝承ではなく文字記録だから、飛鳥時代や奈良時代の人たちが、こうした史実を知っていたとしても不思議ではない。
ーーーーーー
京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
_________
新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。