6月1日(日)のワークショップで、あらかじめ資料として準備していなかったことについて濃い質問があって、それに応えているうちに、自分でも頭の整理をしたくなって、昨日、斑鳩と飛鳥に行ってきた。
濃い質問の内容は、「聖徳太子信仰がいつ頃から、なぜ、どういう風に始まったか?」ということと、それについての対話で出てきた飛鳥時代の善信尼たち三人の尼僧の当時の社会における役割から、古代の巫女的な女性の役割についてのこと。
聖徳太子の存在が史実であるかどうかはともかく、聖徳太子信仰は、聖徳太子と観音菩薩を重ね合わせて極楽浄土への導き者として太子を位置付けているわけだから、これは阿弥陀如来信仰つまり浄土経のコスモロジーであり、この信仰は鎌倉時代初期の法然や親鸞によって日本国中に広まっていったもの。
なので太子信仰が、これほど日本の隅々まで広がったのは中世の浄土経の全国への展開と重なっていると思うが、この太子信仰の軸が、いつ、どのような形で定まったのか。
飛鳥時代から白鳳時代に、太子に対する崇敬があり、太子の息子の山背大兄皇子が、自らの宗教的権威を高めるために太子の伝説化を行なった可能性はあるものの、国家として聖徳太子を特別視するようになったのは、奈良時代の初期であろう。
それは、738年に行信によって斑鳩の法隆寺東院に夢殿が建造され、聖徳太子を追慕するために観音像を設置したことに現れている。
この観音像は、中世になって太子信仰と浄土信仰が重なっていく段階で、聖徳太子の姿そのものとされ救世観音菩薩と呼ばれるようになった。慈悲と救済の姿を強調するために、「救世」の名称がつけられたとされている。
この救世観音像を、かなり以前に梅原猛氏が聖徳太子の怨霊封じだという説を提唱したが、その説は、すでにナンセンス極まりない俗説という評価になっている。
聖徳太子の死の背後に中臣(藤原)鎌足がいると決めつけ、聖徳太子の怨霊を恐れる藤原氏一族、とりわけ奈良時代前半に陰謀によって権力を牛耳ろうとした藤原不比等が、夢殿の観音像と聖徳太子を重ねて、頭の後に釘を刺すように設置したなどと実にくだらない説。
梅原氏に限らず、日本の古代史を、藤原不比等や蘇我馬子の陰謀がどうのこうのと権力抗争の勝ち負けで決まってきたとする短絡的な視点で説明する人が、いまだに多い。歴史というものが、一部の人間の権力欲求で動いてきたかのような単純な歴史解釈について、私は、同意できない。
人間というのは、確かに権力欲求の強い人もいるが、すべての人がそうではない。
法隆寺に夢殿が作られたのは738年、行信という一僧侶の意思というより、当時の統治者である聖武天皇と光明皇后の「祈り」が反映されている。
とりわけ光明皇后は、聖武天皇の「仏教による天下安寧思想」を、宗教実務面から具体的に行なっており、悲田院などの設立は、仏教の慈悲思想を国家倫理として制度化した象徴だ。
しかし、この二人の前に、斑鳩の法隆寺に深く関与した人物が存在しており、それは、光明皇后の母、県犬養三千代。
県犬養三千代は、藤原不比等の後妻だが、元明天皇の信望が厚かったのは県犬養三千代であり、下級官僚だった藤原不比等の出世は、天武天皇の時代から、持統天皇、文武天皇、元明天皇に仕えてきた県犬養三千代の支えによるものだ。
法隆寺には、夢殿以外に、もう一つ、八角形の建物があり、それは西院伽藍の西円堂。『元亨釈書』など後代の記録では、法隆寺の西円堂は、718年、県犬養三千代の発願により、行基によって建立されたと伝えられている。
西円堂は、法隆寺の中でも一段高いところに作られており、この場所から、五重塔や金堂を見下ろすことができる。
また、八角形は、胎蔵曼荼羅の中心部にある八つの蓮華の葉とも重なり、宇宙の生成・維持・変化・消滅を表すとも言われるが、日本の天皇として初めて火葬された持統天皇をはじめ、律令制の開始時期の天皇や、その血縁者の墓が、八角墳であることと関わってくる可能性がある。
そして、夢殿の隣にある伝法院は、県犬養三千代の住まいを移転・転用したという『寺伝』があり、太子信仰の地=法隆寺が、県犬養三千代の信仰の「家」であったと解釈することもできる。
伝法院は、聖武天皇の夫人となった橘古那可智の邸宅を改めたという説もある。橘古那可智は、仏教に篤く帰依し、経典769巻を法隆寺に施入したとされるが、彼女は、県犬養三千代が藤原不比等と夫婦になる前に産んだ橘佐為の娘であり、法隆寺に多額の寄進をしたとされる光明皇后とともに、県犬養三千代から三代に渡る女性たちの魂が、斑鳩の法隆寺には反映されていると言える。
歴史的には、県犬養三千代の夫の藤原不比等、光明皇后の夫の聖武天皇が、権力者であり、権力によって歴史を動かしていたかのように受け止められているが、その陰に、困難な時代を祈りの力によって乗り超えていく必然性を強く感じていた女性たちがいた。
法隆寺には、県犬養三千代の念持仏だったとされる国宝の阿弥陀三尊像も伝わっており、法隆寺の宝蔵院で見ることができる。
念持仏というのは、身辺に置き私的に礼拝するための仏像だが、これが、阿弥陀如来像であることが、印象的だ。
奈良時代の仏教は、国家鎮護など政治と結びついたものであったとよく言われるが、それは東大寺の大仏が完成した748年以降、東大寺を中心に教学を学び合った南都六宗を指すもの。
県犬養三千代が、念持仏として阿弥陀像を所有していたということは、平安時代後半から鎌倉時代にかけて庶民のあいだに広がる浄土信仰(阿弥陀仏の救いを信じ、死後に極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰)を、彼女が既に抱いていた可能性を示している。
浄土信仰においては観音菩薩が阿弥陀如来の慈悲を表す存在で、人々を浄土へと導く菩薩だから、夢殿に観音菩薩像が設置されたこととも重なってくる。
聖徳太子が生きた西暦600年頃と同じく、西暦700年代、律令制が整えられていく時期もまた、「和をもって尊し」の精神が、特に必要だったのではないかと思われる。
この時期、幼少の聖武天皇の教育のために理想の君主像として、聖徳太子の人物像が創出・強調されたという見方がある。
具体的には、720年の『日本書紀』では、聖徳太子が推古朝の実質的な統治者として描かれ、十七条憲法や遣隋使派遣などが記されているが、これは、聖徳太子を律令国家体制の先駆者として位置付けたものであり、721年の『上宮聖徳法王帝説』では、聖徳太子を「上宮法皇」=仏教を体現した王としている。
つまり、律令制を整えていくうえで、仏教を正しく理解した王が統治することが最善であるという理念が、律令体制構築の背後に隠れている。
そして、県犬養三千代や、その娘の光明皇后は、統治者を支える女性として、仏教による慈愛と福祉(悲田院・施薬院)、そして、疫病などの苦難にさらされる庶民の魂の救い(極楽浄土に生まれ変わること)などを、特に意識して活動していた。
中世の太子信仰の中に見られる「慈悲」「平等」「病者救済」といった倫理の重視が、奈良時代初期の、県犬養三千代、光明皇后、橘古那可智という三世代の女性たちの仏教受容と、その実践的な活動から既に始まっていたのだ。
この時代は、律令制というまったく新しい政治体制に対して反発する地方氏族の統合が急務で、さらに、社会不安を引き起こす自然災害や疫病が頻発し、それらに対する国家的対応が必要だった。
そうした時、聖武天皇と若年で亡くなった文武天皇以外、持統天皇、元明天皇、元正天皇と女性天皇が長く続いていた。病弱だった文武天皇は持統天皇が代行し、聖武天皇の治世もまた、実際には元正天皇が執行していたという説もある。
現代の我々からはわかりにくくなっているが、その当時、国の調和を保つために、女性の力が、重要な役割を果たしたのかもしれない。
このように、時代の転換期において、仏教を軸にして、そして女性が重要な役割を果たしながら国内を一つにまとめていこうとする動きは、奈良時代が最初で最後ではなかった。
(つづき)
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京都と東京でワークショップを行います。
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
<京都>2025年7月26日(土)、7月27日(日)
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
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