一つの場所にある聖域の謎を解こうと思えば、その場所の歴史だけを掘り下げるだけでは不十分で、周辺の地理的条件などを、詳しく探っていく必要がある。
ブナの原生林が広がる白神山地の南部、秋田県能代市二ツ井町の標高333.7メートルの高岩山の山中に、高岩神社という不思議な神社が鎮座している。
この神社は、清水寺に似た「舞台造」の建造物で、ご神体が、阿弥陀如来像、薬師如来像、観音菩薩像である。
この神社を創建したのは、平安時代の初期の円仁であり、円仁は、同じ時期に、恐山の菩提寺を開いている。
その時期は、桓武天皇の命で坂上田村麻呂が蝦夷征伐を行った後、武力的な支配から宗教的な懐柔へと俘囚政策の転換を行った時期で、小野篁の父で、文章博士で空海とも親交のあった小野岑守が陸奥守に任ぜられた時だったということは、先日の記事に書いた。
秋田県能代市の高岩神社に円仁が関わっているというのも、この地が、その俘囚対策の要地の一つだったからだと考えられる。
円仁は僧侶であるにもかかわらず、この地に、恐山のように寺を開かず、神社を創建し、その御神体を、阿弥陀如来像、薬師如来像、観音菩薩像とした。
これはまさに、神仏習合のかたちをとった聖域であるが、多くの日本人は、神仏習合ということをごく自然に受け入れてはいるものの、この宗教観が、いかようにして整えられていったかについて、とくに意識することはない。
神仏習合の宗教観の要にある本地垂迹説、すなわち、仏が本来の「本地(ほんじ)」の姿であり、日本の神々はその仮の「垂迹(すいじゃく)」の姿であるとする思想が整えられたのは、平安時代初期から中期であり、実は、この時期は、蝦夷の懐柔政策の時期と重なっている。
蝦夷の在地の神々を否定せず、仏教信仰に取り込んでいくこと。 これによって、蝦夷の人たちの信仰や社会慣習を尊重しつつ、律令国家の枠組みの中に組み込んでいく。この統治方法は、古代日本にかぎらず、欧州が中南米をキリスト教化していった時も行っている。インカの人たちにとって山の神アプーは、キリストと同じだと。だから、その後の中南米のキリスト教関係の祭りは、彼らの土着の宗教観と融合したものになっている。
平安時代の初期の蝦夷の宗教的懐柔政策を担っていたのが、円仁だった。
円仁は、恐山を開山しただけでなく、秋田県能代市二ツ井町に高岩神社を創建した。
なぜ能代市二ツ井町なのか? 当然ながら理由がある。
まず、この能代市二ツ井町には、茱萸ノ木遺跡・麻生遺跡・杉沢台遺跡など、縄文時代から続く集落・祭祀の痕跡がある。
そして、高岩神社のそばを流れる藤琴川を白神山地の方に北上していくと、太良鉱山があり、主に鉛が産出されていたが、金や銅も採掘されていた可能性があるとされる。
藤琴川は米代川と合流するが、この東北で五番目の大河は、日本海から十和田湖方面へと北秋田を東西に横断するように流れており、その流域は、支流も含め、非常に重要な鉱山地帯が集中しており、日本の鉱業史においても極めて重要な地域だ。その下流の日本海に面した地には、上の山Ⅱ遺跡・ムサ岱遺跡(能代市浅内)があり、旧石器時代から平安時代までの人々の暮らしの痕跡が残るが、鍛治炉や製鉄炉も発見されている。
そして、さらに興味深いのが、北秋田を代表するストーンサークルのある伊勢堂岱遺跡は、高岩神社から西に8kmほどの米代川沿いに築かれており、日本のストーンサークルで最も規模が大きく有名な大湯環状列石(万座環状列石)が、伊勢堂岱遺跡から米代川を40kmほど東に遡ったところにあること。大湯環状列石のすぐ近くには、明治時代、銅の産出量で全国有数の規模を誇り、金や銀も豊富に産出された小坂鉱山がある。
日本のストーンサークルのなかで、とくに伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石のストーンサークルは、太陽の運行に基づく暦的機能が備わっているという特徴があるし、大湯環状列石からは、土版と呼ばれる特殊な道具が発見されており、これは、数字の1から9まで表示されているのだと言う。
さらに、伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石のストーンサークルから出土した土器は、亀ヶ岡式土器をはじめ、八ヶ岳や新潟の縄文土器などと比べ、あまりにも実用的で洗練されている。
時代背景が異なるというより、「縄文文化」という枠組みで考えていいものかどうかという疑問が残る。
伊勢堂岱遺跡からの出土品で特に気になったのが、弥生時代の銅鐸の初期型のものにそっくりの銅鐸形土製品が、数多く作られていること。
弥生時代後期の銅鐸は巨大化して、装飾が施され、見る銅鐸とされるが、前期のものは小型で、装飾がなく、音を鳴らす機能がある。あれと同じものが、青銅器でなく、陶器で作られており、それが大量に伊勢堂岱遺跡から出土している。
技術的には青銅器を作る技術を持っていなかったようだが、同じ形のものを、陶器で作ったのではないか。陶器で作られた片口のような酒器も、中国の青銅器と似ている。
近年、炭素14年代測定によって、弥生時代の始まりは紀元前1,000年頃にさかのぼるという説(早期弥生説)が有力であり、だとすると、これまで縄文晩期とされていた紀元前1000年頃に築かれた伊勢堂岱遺跡は、縄文ではなく、弥生時代のものということになる。
いずれにしても、伊勢堂岱遺跡と大湯環状列石からの出土品は、「狩猟採集の縄文文化」という枠を超えた文明的な様相が感じられる。
そのあたりのことは、まだ謎のヴェールに覆われているが、いずれにしろ平安時代初期に高岩神社が築かれた米代川流域の勢力は、当時の朝廷が行った蝦夷の懐柔政策にとって、きわめて重要であったということであり、それは、この周辺地域の地下資源が大きく関係しているのではないかと思われる。
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