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第1566回 にほんの”はし”への旅(3)

津軽半島の北端の竜飛岬

 今回の旅では、下北半島をめぐった後に、津軽半島をめぐりました。
 どちらも北海道に向けて突き出している半島ですが、その世界は、まったく異なります。
 下北側は、荒涼として寂しい風景が続きますが、津軽側は、水田やりんご園が広がり、豊かさが伝わってきます。

 そのためか、下北側は、原子力施設への依存が非常に強く、原子力発電所東通村原発)、核燃料再処理施設(六ヶ所村)、使用済核燃料の中間貯蔵施設(むつ市)などの国家プロジェクトの集中地帯です。
 下北と津軽の違いは、現代だけでなく古代からのものでした。
 津軽の方は、日本海交易など接点に位置し、外部との交流が比較的盛んだったと考えられ、稲作の痕跡も比較的多いです。そのためか、中央政府と対抗できる力を備えていた可能性もあり、文献上でも、蝦夷の反乱の舞台として登場しますが、下北半島は、そうした記録がなく、歴史の空白のようになっています。

津軽半島で最も古い文化の痕跡が残る大平山元遺跡。石器時代から縄文時代草創期で、ここから出土した土器は、日本最古級。

 縄文時代に関しては、両地域とも痕跡が見られますが、貝塚からの出土品に大きな違いがあり、津軽は、シジミやハマグリなど内湾・汽水域のものが中心で、下北半島は、ホタテなど潮間帯~外洋型のものが多く、何よりも、下北は、イルカ、クジラ、アザラシ、トド、マグロなどの大型魚介類の骨が出土し、津軽半島は、イノシシ、シカ、クマなどの陸上獣という違いがあります。
 道具も、津軽は石器が中心ですが、下北は、骨角器が高度に発達し、海獣処理・漁撈に適した道具となっています。

津軽地方のストーンサークル岩木山を望む場所に築かれた大森勝山遺跡。

 縄文文化を代表するとされる土偶ストーンサークル、大規模な集落においては明確な差があり、津軽は、日本を代表する土偶の出土地帯ですし、小牧野遺跡のストーンサークル三内丸山遺跡などが有名です。下北には、大規模遺跡やストーンサークルは発見されておらず、土偶も、ほとんど出土しません。

三内丸山遺跡

 また埋葬方法も違っており、下北は、数が多いけれど小規模で、動物遺体と共葬もあり、自然との循環のイメージがありますが、津軽は、集落内に墓域が設けられ、屈葬とか甕棺など、死に対する人間の意識が反映されたような埋葬方法が多いです。
 屈葬や甕棺などの死者の四肢を折り曲げて胎児のような姿勢で埋葬する方法は、日本にかぎらず、メソポタミア古代エジプト、インダス、および、ヨーロッパのストーンサークルなど巨石文化圏でも見られます。
 つまり、ストーンサークル土偶が、縄文文化を象徴すると思っている人が多いですが、津軽と下北は同じ縄文時代の痕跡でも大きな違いがあり、ストーンサークル土偶は、津軽のように、日本以外と交流が盛んであった地域における特徴だという可能性もあるのです。
 もちろん、無文字時代のことゆえ、その交流を裏付ける明確な文献証拠などが存在するはずはありませんが、津軽の亀ヶ岡や三内丸山などの縄文遺跡から出土する石器や骨角器の一部に、シベリア南部のアムール川流域や、朝鮮半島北部の旧石器・新石器系文化との共通性が見られ、特に、細石刃技術が酷似しているとされます。
 また、シベリアのシャーマン文化では、「仮面」は異界(死者・精霊・動物霊)と交信する道具ですが、縄文文化を代表するとされる遮光器土偶は、その仮面をつけた形態である可能性が高い。

遮光器土偶で有名な亀ヶ岡遺跡。

 さらに、これもまた縄文文化の洗練されたセンスを代表するなどと言われる亀ヶ岡式土器、そのなかの片口の酒器の形態は、古代中国の殷・周代の青銅器や、紀元前2000年頃からの古代ペルシャエラム文化や、メソポタミア周辺の陶器・金属器にも見られます。
 亀ヶ岡式土器は、機能美と宗教的儀礼用をあわせもった形態であるとされますが、その形態は、決して、日本特有のものではありません。
 もちろん、人間が作り出すものとして、互いの情報交換がなくても似たようなものを作り出す可能性はありますが、大陸との交流が顕著な津軽にそれが見られて、下北にはそれが存在しないことは、無視できません。

津軽ストーンサークル。小牧野遺跡

 さらに、津軽地方の代表的ストーンサークルがある小牧野遺跡や、岩木山の麓の大森勝山遺跡からは亀ヶ岡式土器が出土しており、さらに北秋田を代表するストーンサークルである伊勢堂岱遺跡や、大湯環状列石からも亀ヶ岡式土器が多く出土しており、巨大なストーンサークルと亀ヶ岡式土器の出土は重なっていますが、巨大なストーンサークルがない東北の縄文遺跡、三内円山遺跡や御所野遺跡からは、亀ヶ岡式土器は出土していないのです。
 ストーンサークルと亀ヶ岡式土器は、縄文時代後期に作られているため、縄文文化を日本オリジナルとみなして、この二つを、縄文後期の文化を特徴づけるものという説明は可能ですが、ストーンサークルも亀ヶ岡式土器の形態と同じく、世界に類例が多いことは、縄文後期には、日本以外の地域と交流が頻繁に行われて、その影響を受けていたと考えることもできるわけです。
 ストーンサークルは、イギリスやフランス、アイルランドのものがよく知られていますが、シベリアのストーンヘイジと呼ばれるロシアのアルカイム遺跡や、アルメニアコーカサス地方といった、ユーラシア大陸を東西に行き来していた騎馬遊牧民族の活動領域にも残されています。
 騎馬遊牧民族は、ユーラシアの東の端のアムール川流域にも痕跡を残しており、アムール川流域は、日本海を北から南、東から西へと流れるリマン海流(かつてのオホーツク海流)の起点です。この海流に乗れば、日本列島の裏日本への到達は簡単です。
 縄文文化の最盛期とされる縄文中期(三内丸山など今から5000年から4000年前)と、ストーンサークルや亀ヶ岡式土器が作られた縄文後期(今から4000年前から3000年前)で文化の様相が異なるのは、日本国内における縄文文化の熟成度が異なるという理解だけでなく、時期によって、日本以外との交流が著しかった時と、そうでなかった時があったという解釈もできます。
 2000千年というのは、現代から遡っても、異国との交流が盛んだった時と、そうでなかった時の大きな違いはありました。
 日本国内の状況の違いだけでなく、その期間、大陸の状況も変化していたわけであり、その影響が日本に及んでいても不思議ではないでしょう。
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三内丸山遺跡




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