昨年の夏、「かんながらの道」というテーマで本を作るための最後の追い込み段階にあった時、猛暑にかかわらず東京の街中に潜入して、三脚を立て、針穴写真で撮影を行っていた。その長時間露光のあいだ、流れゆく人々の姿を見つめている時、このテーマを終えたら、恐山に行かなければいけないという気持ちになった。
恐山には15年くらい前に一度行ったことがある。3.11の大震災の前だが、その頃から、恐山、早池峰、久高島、八ヶ岳周辺、高野山といった聖域に何度も足を運ぶようになった。
風の旅人が40号あたりの時で、SNSなどが急激に流行しだしたことなどもあって販売数も減り、存続させることが苦痛でしかたなかった頃だ。
その頃に訪れた時のイメージが記憶の底に潜んでいるのだと思うが、それ以降、恐山のことを特に意識したことはなかった。
しかし、突如、「かんながらの道」の後は、恐山から始めるのだという啓示のような感覚が自分のなかに降りてきた。ここ十年は、そうした直観を大事にして行動するようにしている。
その直観の理由は、よくわからないが、今回の東北巡礼は、その直観をもう少し確かなものにするためのものであり、東京を出発して、まずは下北半島まで一直線に北上した。
恐山は、他界と、この世界の接点とされてきた。だから、ここに来ることで、懐かしき亡き人に出会えると、古くから信じられてきた。
私は、とくに特定の亡き人に出会いたいと願っているわけではないが、彼岸と此岸の境界のような場所には、長いあいだ、心惹かれてきた。
境界とか間とかが自分のポジションであり、その場所が仕事をするうえでも自分の適正があるように感じ、だから、長年、編集という仕事に携わってきたのだと思う。
そして、編集者という職能を超え、境界とか間を意識しながら日本の古層を編集し直すという試みを、この九年間、続けてきた。
日本の歴史文化において、境界は、とても重要である。境界には、恨みをもって亡くなったものを丁寧に祀ってその魂を鎮めた後に配置するということが行われた。鬼というのは、そういう存在であり、人に危害をくわえるだけでなく、丁寧に対応することで守神になる。
アラハバキという神も、その類で、別名が門客神であるように、門を守る客神であるが、客神というのは、後からやってきた人たちから見て、それ以前にいた人たちの神にあたる。
恐山というのは、地蔵菩薩が御本尊であり、地蔵菩薩は、地獄に落ちた者を救うという特徴があるが、これは、日本独自に形成された仏観だ。
地蔵菩薩というのは、地獄で苦しむ者にも寄り添い、成仏へと導く。そして地獄に落ちる原因は、決して、犯罪者ばかりとは限らない。煩悩を残したまま亡くなった者もそうであり、無念の死を遂げた者や、親を悲しませることになった死んだ子供までも、そう簡単に極楽に行けない。
とくに親より先に亡くなってしまった子は、三途の川にとどめおかれ、成仏するために石を積んで仏塔を建てようとするが、鬼に崩されてしまい、そのたびに繰り返し石を積むという行為を重ねる。
現世において果たせていないことが、ここに象徴されている。
積んだ石が鬼に崩されてしまうというのは、現世における「もののあはれ」の世界観と通じており、この苦行を、情けによって救うのが地蔵菩薩ということになる。
恐山は火山地帯であり、今でも火山活動によって荒涼たる風景が広がっている。ところどころ硫黄が噴出し、あたりには硫黄の匂いが漂っている。これが、地獄や黄泉の国を連想させるのは自然のことだけれど、火山国の日本には、似たような場所は、他にもいくつもある。
それゆえ、恐山が、下北半島という陸の果てにあるということが、大きなポイントだろうと思う。
しかし、この最果ての場所に来なければ亡き人と出会えないのかというと、そうでもないところが日本の応用力だ。
その代表的な場所が、京都の東山にある六道珍皇寺。2014年に私が京都に移住した時、十分な下調べもせずに直観で決めてしまった家が、まさに六道珍皇寺の隣であり、2階の窓からは、六道珍皇寺の庭が見えた。その時は知らなかったのだが、この六道珍皇寺には、冥土通いの井戸がある。平安時代、小野篁が、昼間は嵯峨天皇に仕え、夜は地獄で閻魔大王に仕えるために通ったという井戸だ。
なぜこの場所かというと、この寺が面している松原通りは、かつての五条通であり、亡くなった人の遺体を清水寺周辺の鳥辺野という風葬地帯に運ぶ道であり、六道珍皇寺が、最後のお別れをする場所だったからだ。
なので、この六道珍皇寺もまた、「この世とあの世の境目」であり、8月のお盆には「六道まいり」が行われ、多くの人が死者の精霊を迎えるために訪れる。
六道珍皇寺では恐山のような賽の河原の石積みは行われないが、「迎え鐘」という死者の魂を呼び戻すことが行われ、朝から晩まで、この鐘の音が鳴り響き、1日中家にいる時、最初は心地よくても、しだいに、めまいのような感覚に陥り、まさに「この世とあの世の境目」にいるような気分になったものだった。
六道珍皇寺は、本尊が閻魔大王だが、それは表で、裏には地蔵菩薩がいる。でないと、六道参りには誰も行かない。
そして、生きた地蔵菩薩とされたのが、踊り念仏で知られる空也だが、空也と深い関係があるのが、六道珍皇寺のすぐそばにある六波羅蜜寺なのだ。
六波羅蜜寺には有名な「空也上人立像」があり、その口から6体の阿弥陀仏が列をなして出ている。
空也は、「市の聖(いちのひじり)」とも呼ばれ、京都の市中を巡りながら病人を看護し、踊り念仏を広めた。まさに地蔵菩薩のように、苦界に堕ちた者たちのもとへ自ら降りて行って救済するということを実践していた。ゆえに、空也は地蔵菩薩の化身であるという伝承が生まれたのだ。
実は、六道珍皇寺の小野篁もまた、地獄で閻魔大王に仕えるだけでなく、地獄で苦しむ人々を救っていたという説もあって地蔵菩薩の化身という伝承がある。
この伝承が、堀川通にある紫式部の墓が小野篁の墓と隣り合わせになっている理由につながるという俗説もある。男と女の色ごとを文学にした紫式部が地獄に落ちて苦しまないように小野篁に救ってもらうためということで、この説は、熱烈な源氏物語ファンのあいだで広まった。
小野氏は、地獄だけで活躍するのではなく、古代、多くの外交官や文学者を輩出していることや、京都の鬼門、風門、天門という三つの門が小野郷であるように、国と国、人と神、現実と霊界の間を媒介する存在だった。このことは、昨年に発行した「かんながらの道」で詳しく書いた。
小野氏は、二つの世界のあいだ架かる橋に関係し、だから、橋姫=瀬織津姫を祀る聖域は、小野氏が関わるところが多い。さらに道祖神のような役割で、境界に存在して、道ゆく人の移行を助ける仲介者ということになる。
私は、京都の移住した時から、すぐ隣に六道珍皇寺であることに何かしらの運命を感じて、その後、小野の足跡を追い続けてきた。
地蔵信仰の萌芽は、平安時代初期であり、小野篁や、その父の小野岑守が活躍していた時期だが、若き小野篁は、陸奥守に任ぜられた父の小野岑守とともに、陸奥国で過ごした。
陸奥国は、青森、岩手、秋田北部、福島で、今回の私の旅と重なる場所だが、「俘囚(ふしゅう)政策」の転換と大きく関わっていた。
簡単にいうと、桓武天皇の時に坂上田村麻呂を将軍として蝦夷征伐を行ったのだが、その後も反乱が起きたために、「武力による制圧」から「制度による統合」へと転換し、蝦夷の人々を軍事力・労働力として再編成し、土着させることが目的化されたのだった。
その陸奥国に派遣された小野岑守は、坂上田村麻呂のような武人ではなく、文章博士をつとめるなど小野氏の多くがそうであったように文人だった。
俘囚(ふしゅう)政策の転換というのは、鬼を丁寧に祀って守神に転換させるという発想と通じている。
恐山の開山は、862年、円仁によるとされるが、唐で菩薩信仰に触れた円仁は、帰国後、東北への布教を行っており、円仁が生きた時期は、小野岑守や小野篁と重なる。
そして、円仁の東北への布教は、俘囚対策と関連していると思われる。円仁は、東北の俘囚たちの死生観や山岳信仰を尊重しつつ、そこに仏教を融合させて布教していったのだ。
恐山における地蔵菩薩の役割の位置づけは、古代から続いていたであろう恐山に対する蝦夷の霊場感覚を融合させたものだ。
蝦夷の怨恨を鎮め、救い、そのようにして対立的な構造を抑えていくこと。
地蔵信仰じだいは、奈良時代にはすでに日本に伝わっていたが、それは単に仏教の守護菩薩の一つであり、朝廷や寺院で信仰されていた程度で、現在に伝わる日本特有の地蔵信仰でなく、庶民のあいだの広がりには至ってなかった。
その転換は、やはり円仁であり、彼は、おそらく俘囚対策との関連もあって東北において地蔵菩薩信仰を広め、恐山を死者の霊を慰める霊場として開山した。
恐山で地蔵菩薩が「亡者の救済者」として祀られたことで、地蔵信仰が東北地方の死者信仰と融合し、日本各地でも地蔵菩薩を祀る寺院や地蔵堂が増え、さらに道祖神など様々な形で広がり、京都においても、六道珍皇寺や六波羅蜜寺といった、異界との境界場所に根付いていった。地蔵菩薩は、庶民の生活に欠かせない守護神として定着していったのだ。これが、日本特有の地蔵菩薩への信仰の姿だ。
今ではどこにでも見られる地蔵様のルーツとしての恐山。ここは、あの世とこの世の境界でもあり、対立を融和へと転換させるための日本ならではの精神文化の、一つの象徴。
さらに、魂の救済のために石を積んでは鬼に崩されるという、我ら人間の「もののあはれ」の宿命を、地蔵菩薩の情けによって慰められる場所なのである。
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京都と東京でワークショップを行います。
<京都>2025年5月31日(土)、6月1日(日)
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
☆この季節、集合場所の高幡不動尊金剛寺は、山紫陽花のシーズンで、およそ200種類、17500株の紫陽花が、咲き誇るさまは、見事なものです。
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております