ゴールデンウィークが終わった後に東北への巡礼の旅を行う計画なので、連休中は、今年に発行予定の大山行男さんの写真集、The Creation Vo.l3に、筋道を立てるつもりで取り組んでいます。
大山行男と言えば富士山の写真家と思われていますが、4年ほど前に、それまで10年に渡って撮り溜めていたインドの写真集を人物をメインに作りました。鬼海弘雄さんは、生前、大山さんのことを、「風景の写真家だと思っている人が多いけれど、彼は人物スナップの名手」と評していたが、インドの大都会の夜の人間模様を、大山さんほど深く入り込んで撮った人は、それまでいなかったと思う。
そして、今回は、富士山周辺の人間の営みを撮り続けた写真を「人間曼荼羅」という形で写真集にすることを目指しています。
これまで10,000点以上撮った写真から、私が東京と京都のあいだを移動するたびに大山さんのところに立ち寄ってセレクトし、1000点ほどに絞りこんで、この連休前に持ち帰り、ひとまずどんな具合なのか写真集の全体像を構築してみようと思ってやりはじめたところ、もう十分に世界が出来上がっている手応えがある。
その「世界」の手応えというのは、The Creationというタイトルに相応強いものであるかどうかだけれど、この大きなテーマを、今日の日本社会に生きる人間だけで示すことは、そう簡単なことではない。
そもそも、この「The Creation」は、エルンスト・ハースという著名な写真家が、旧約聖書の世界観に基づいて制作した写真集を意識しながら、西欧のコスモロジーではなく日本のコスモロジーで表現したらどうなるかという構想で、私と大山さんとのあいだで続けてきたプロジェクト。これまで、Vol.1「生命の曼荼羅」、Vol.2「天と地の曼荼羅」を制作し、今回のVo.3「人間曼荼羅」が、その集大成となります。
昨年の1月に、大山さんの奥さんが他界されたこともあって、少し進行が止まったけれど、一周忌を終えて、再度、エンジンをかけ直した。
聖なる富士山の麓の「大地」や「生命」は、「The Creation」というテーマに負けないが、「人間」の場合どうなのか? これはやってみないとわからないという気持ちがありましたが、富士山の麓に40年以上暮らした大山さんが、これまで富士山の麓に暮らす人間の営みを撮影したいと思いながらも、それができなかった、死ぬまでやり遂げたいという強い気持ちもあって、この数年、二人で、対話をしながら取り組んできました。
エルンスト・ハースの「The Creation」では、人間が登場するのは最後の一枚だけ。アダムとエバという設定で、草むらの中の男女がいるという、あまりにも陳腐で抽象的な神話設定にすぎない。つまり、ただのコンセプトであり、神話をなぞっているだけのもの。
私は、そういうことはやっても意味がないと思っており、今を生きる人間模様それじたいが、後世、神話として伝えられるようなものでなければ、敢えて表現という形にする価値がないと感じています。
しかし、この文明社会において、それは至難の技だということもわかっている。
海外という設定ならば、秘境の珍しい風景をバックに、珍しい習俗の人々を写すだけで、なんとなくそれらしく伝えることができる。その程度のことならば、誰でもお金さえ出せば地球上のどこにでも行けて、スマホで撮影すれば、その瞬間、世界中に発信できる時代であり、表現者が精力を傾けてやるほどのことではなくなっているでしょう。
その程度のものをコラージュのように集めて「人間曼荼羅」という類のキャッチをつけて展示会や書籍などで公開することも、消費社会ではよく行われています。
誰でもできることは、他の誰かがやればいい。そして誰でもできることは、今後、人工知能の方が、はるかに上手に、素早く行うことができるでしょう。
と、ここまで偉そうなことを敢えて言っているのは、当然ながら、今、制作中の「The Creation vol.3 人間曼荼羅」に対して、自分自身にもプレッシャーをかけるため。
そして、同時に、手応えも感じているため。
現代の日本社会における写真表現は、コンセプチュアルに、何か物事を考えているらしき装いで行っているものがとても多く、しかも、学芸員とか評論家もまた、何か物事を考えているらしき装いの文章で、その程度のものを持ち上げる傾向にあります。
なので、写真表現を志そうとする者も、そのように何か物事を考えているらしき装いでやることが良いことだと思って、その潮流に追随している。
本当に、深く深く世界のことや人間のことを考えているのであれば、その表現も深く心に届くはずなのだけれど、頭のなかであれこれ整理するだけにとどまり、心に強く働きかけているものは、ほとんどない。
評論家や学芸員が持ち上げている写真展や写真集を見て、本当に心を揺さぶられたり、ここではないどこかに心が導かれるような体験をした人が、どれほどいるだろうか。
おそらく、そういうコンセプチュアルなものに関心を持っている人は写真業界にとどまっていて、世の中の大半は、自分とは関係ないことと醒めた目で見ているか、ほとんど無視しているのではないかと思う。
大山行男さんのThe Creation「生命の曼荼羅」や「天と地の曼荼羅」は、評論家や学芸員からは何の反応もなかったが、写真業界とは関係のない読者からは多くの反響をいただきました。そして、自分のためだけでなく、友人のために買ってくれた人もけっこういて、なかには10冊買って、友人に配りたいという人もいた。
写真集で、自分以外の誰かのためにという目的で購入することは、今の世の中、ほとんどなくなっている。懸賞小説などを掲載をする文芸雑誌は、小説家を目指している限られた人に昨今の傾向を知るための資料として購入されているようだけれど、写真業界においても、似たところがある。どんな感じの写真が、新しいとされているのか、評価されているのかとかいう資料。
手元に置いて、何度も見返したくなる写真集以外の大半は、そういう類のもの。とくに商業的価値を優先する昨今の出版社経由のものは、自ずからそうなってしまう。
現代の日本社会は、標準化と画一化が著しいとよく言われるけれど、だからといって、表現を志す者たちが、そうした、既に多くの人たちが認識済みの社会イメージを上塗りするようなことをしても、そのイメージは、さらに強固されるだけのこと。そういう人間行為の積み重ねが、人工知能に脅かされる人間作りにつながっている。
本来、表現者は、多くの人たちが標準的に共有しているイメージをなぞるのではなく、見落とされているものを見出すことがミッションだったはず。
多くの人が見落としているものを表現者が掬い取っていくことで、気付きを与え、その気付きが、新たな心の動きへとつながり、心の動きが行動へと結びついて、そのようにして社会は少しずつ変化していく。その最初の初動、すなわち古池に飛び込む蛙が、詩心を持つ表現者だったはず。
この現代社会において、敢えて「人間曼荼羅」と冠する世界の表出。簡単なことではないけれど、人工知能に取って変わられると、日々、脅かされている今日だからこそ、人間と人工知能の違いを示す表現が、人間の精神にとって命綱なのだと思う。
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京都と東京でワークショップを行います。
<京都>2025年5月31日(土)、6月1日(日)
<東京>2025年6月21日(土)、6月22日(日)
☆この季節、集合場所の高幡不動尊金剛寺は、山紫陽花のシーズンで、およそ200種類、17500株の紫陽花が、咲き誇るさまは、見事なものです。
*いずれの日も、1日で終了。
詳細、お申し込みは、ホームページでご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/
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新刊の「かんながらの道」も、ホームページで発売しております。
