空海は、「真理というものは言葉で言い表せないものだけれども、けっきょく言葉で表現して伝えようと努力するしかない」と言った。だから空海の密教は、真言密教。
密教というのは、本当は、経典の言葉では伝えられない真理への道のはずだけれど、真言密教は、あえて「真言」という言葉を合わせており、空海自身も、膨大な言葉を後世に残している。
さらに、同じ時代を生きた最澄が備えていなかった融通無碍を心得ている空海は、「真理を言葉によって表現しようとしても理解できない人は大勢いる、だから曼荼羅のようなビジュアルも必要」と考えていた。
私は、空海研究者ではないけれど、空海が伝えようとしたことを自分なりに理解して、アウトプットに反映させたかった。
まことに「理解」しているかどうかは、色々な知識情報を知って、その知識情報を、ペラペラと喋ったり、こうして文章化するだけでなく、何らかの形で自分なりのアウトプットに昇華させることが鍵になるだろう。
空海の時代には写真というビジュアルはなかった。現代は、私たちの生活空間のすみずみにまで写真表現が入り込んできている。だから、写真家でなくても、写真との付き合い方が、その人の時代社会との付き合い方だと言っても過言ではない。
さらに、写真との向き合い方は、その人の世界(他者)との向き合い方につながっている。
空海の両界曼荼羅において、胎蔵曼荼羅は「理」を表し、金剛界曼荼羅は「智」を表すとされる。
胎蔵曼荼羅は、中心に大日如来が位置し、その右側に普賢菩薩など知恵の仏たち、左側に観音菩薩など慈愛の仏たち、その下側に不動明王など人間を厳しく導く仏たち、上側に釈迦如来など人間を優しく導く仏たちが位置し、曼荼羅の隅々まで埋め尽くす無数の仏たちは、すべて大日如来の化身とされる。これは森羅万象の変わらない構造と性質を示しており、それが「理」ということになる。
また、金剛界曼荼羅は、9区分の四角の領域が、外側の右端から反時計回りに螺旋状に9つの段階を経て中心へと向かっていく道筋が示されている。
右も左もわからず食欲など生存のための原始的な欲求にまみれた状態から、少しずつ世の中のことを学習し、理解し、それとともに欲求の内容も変容させながら解脱へと向かっていく道。これが「智」ということになる。
おしなべて人間活動の基本は、この「理」と「智」の組み合わせによるものだ。
具体的には、たとえば宮大工は、樹木の性質を読み取る。樹木には、硬くて重いものや、柔らかくて優しいものなど、様々な性質を備えたものがある。これらの性質が「理」であり、宮大工の都合で変えるわけにはいかない。
宮大工ができることは、それらの樹木の性質を読み取って、その性質に応じて、自ずから然らしむように、樹木を組み上げていって建築物を作ること。
宮大工も最初から匠の技を持っているわけではない。最初は、未熟であり、自らの欲求(これで食っていけるようになりたい、早く一人前扱いされたい、お金が稼げるようになりたい、有名になりたい等)によって目が曇り、樹木の性質(理)を正しく読み取れないだろう。しかし、経験を積んでいくことによって自らの個人的な欲求を乗り越え、樹木と、自分の技が一体化していく境地へと至る。こうした道筋が「智」だ。
ならば、写真表現における「理」とは何にあたるか?
それは、対象に内在するもの、その固有の性質。そして「智」は、その固有の性質を、自ずから然らしむように引き出すこととなる。
具体的に、この「理」と「智」が統合された写真を一つ挙げるとすれば、それは鬼海弘雄さんの「persona」の一連のポートフォリオであろう。
2003年に、鬼海弘雄さんの大判写真集「PERSONA」が出た時、作家の種村季弘さんが、「鬼海さんは、それと知らずに21世紀芸術の幕を切って落としているのである。」という言葉を残している。
種村さんは、実に慧眼であり、見事に未来を預言している。
20世紀の表現の多くは、「理」から遠ざかっていた。「理」に近づこうとする意欲がなければ「智」からも遠ざかっていたということだ。
「理」と「智」に近づくためには、宮大工が樹木の性質を読み取るための努力を重ねるように、自我を捨てて、ひたすら対象と向き合うことが大事になる。
自我の欲望(金銭欲、名誉欲、その他の欲)に目を曇らせていては、対象の性質など読み取れるはずがなく、せいぜい、対象を自分に都合よく利用しようとするだけだろう。
種村さんは、そんな20世紀的表現は、21世紀においては、もう古臭いと言い放っているのだ。
しかし残念なことに、種村さんのような慧眼をもった人が、21世紀の4分の1を過ぎた今も、表現を評価する立場の人のなかで非常に少ない(むしろ減り続けている)ことが、現代社会における表現の頽廃につながっている。
いつの時代でも、時代の先頭を走る芸術表現は、その時代を生きる大勢の心を掴むことはなく、全体の数パーセントにしか影響を与えられなくて、その数パーセントが、次の数パーセントから10数%に影響を与え、その次の段階でようやく半数に至り、その後に、世の中の半数に至っているものを追いかけるだけの人がいる。
そうした状況を嘆くだけではなく、未来への扉に手をかけている少数の表現者が存在していることは間違いないのだから、そうした表現者を心の師として、ひたすら「智」の道筋を辿っていくことで、人生の「理」や、世界の「理」が、少し見えてくるようになり、自分がアウトプットするものの形も異なってくるかもしれない。
どんな人間も、様々な領域で何かしらの形をアウトプットして生きている。
表現分野だけではなく、ビジネスにおいても、交友関係においてもそうであり、そのアウトプットの形が、けっきょく、その人の本分となる。
宮大工の仕事や鬼海さんの写真を見て感じ入るのは、その技術力というより、対象と向き合う深さと、対象に応じる深さであり、それじたいがその人の深さとなって、その人がこの世からいなくなっても、いつまでも記憶に残り続ける。
そうした記憶のつらなりが、真の意味で、人間の歴史なのだろうと思う。
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