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第1504回 五大の響きと、写真表現。

 連日、京都市内をピンホールカメラで撮影し続けている。
 京都の観光名所に群がる人たちは、いろいろな会話をかわしながら、人とぶつからないように巧みに左右に進路を変えながら歩いていて、その場にはすごいエネルギーが渦巻いている。
 私は、その場に三脚を立てて、長い時間立ち続けているので、一人ひとりの顔は覚えていなくても、そのエネルギーを、記憶化することになる。
 写真というのは、「真実の瞬間を捉える」などというキャッチフレーズがつけられた時代もあったが、真実のリアリティを、もう少し深く問う必要があるのではないかと思う。
 真実のリアリティというのは、この世界のあるがままの実相ということになるのだろうが、物の見かけや、意図的な仕掛けや、夢想や妄想や空想から生じるイメージではない。
 「写真家」を名乗る人が非常に多い時代だが、小説の場合も、小説を読む人の数は減っているが、様々な手段で自作の小説を公開する人は増えているらしい。
 SNSなどの普及と、表現の自由大義名分で、すべての国民が、表現者となる時代に、私たちは生きている。
 それは同時に、物の見かけや、意図的な仕掛けや、夢想や妄想や空想から生じるイメージが氾濫する世界でもあり、空海は、そうした状況は、迷いの闇に苦しみやすくなる状況だと説いた。
 現実的には、確かにそうなっている。
 1970年代、世界中で流行になった変革を目指す政治運動が、内部抗争など矛盾に満ちたものになっていき、それらの政治運動を後押しした実存主義にかわって、ポスト構造主義という新たな考え方が生まれた。
 そもそも真理やイデオロギーなど言葉で言い表される「意味」は、その言葉が流通している時代の構造から生み出されたものにすぎない。その結果、真理の言葉など存在せず、個々の現場の問題は、個々において、あれこれ試行錯誤しながら、別々に問題を解決するしかないということになる。
 しかし、言葉の無意味さを言葉で言うだけならば、「クレタ人が、クレタ人は嘘つきであると言っている」という類の自己言及のパラドックスになり、そこが西欧哲学思想の限界になる。
 空海の考えは少し異なっていて、「法は本より言なけれども、言に非ざれば顕れず。真如は色を絶すれども、色を待ってすなわち悟る。(略)密蔵深玄(みつぞうしんげん)にして翰墨(かんぼく)に載せがたし。さらに図画を仮りて悟らざるに開示す。』(御請来目録)と述べている。
 すなわち、「まことの真理というのは、言葉を離れたものであるにしても、言葉によらずには明らかにすることができないし、移ろいゆく現象界を超えたものだけれど、現象界の事物を通じて悟るしかない。密教の教えもまた、文章だけで表しても伝わらない段階の者もいるわけで、その奥義を、図絵を仮りて示すことも必要になる。」という意味になる。
 つまり、ありのままの真理は、言葉や現象界の表現を超えたものだけれど、それらを使って表すしかないということだ。
 そのため空海は、釈迦やキリストと違って、膨大な書き言葉を残しているし、言葉によって真理が伝わりにくい人のために、曼陀羅を活用することの重要性も認識していた。
 そのため空海は、唐から帰国してしばらくは、最澄から密教の経典の借覧を乞われるたびに応じていた。しかし、『理趣釈経』の借覧を求められた時には、長文の返書でこれを断った。
 その理由として、理趣は経典の文の中ではなく、お互いの身体活動の中にあり、以心伝心によってのみ伝えられるものだと空海は考えていたからであり、そのことを最澄に言葉によって丁寧に伝えている。
 理趣とは、道筋の意味であり、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧に至るための道筋であるから、経典の中の言葉だけに執着する姿勢では、その真理を体得できない。
 にもかかわらず最澄は、経典を借りられないとわかると、自分の弟子の泰範を空海のもとに送り込んで密教を学ばせようとした。しかし、空海の偉大さを知った泰範は最澄のもとに帰らなかったため、最澄は、泰範に対して、空海を通じて学んだ密教の知恵を教えて欲しいと懇願した。
 最澄に欠けていたものは、言葉の背後にあるものに対する深い洞察だろう。
 空海最澄のあいだの高い壁を象徴している言葉が、「五大に皆響きあり 十界に言語を具す 六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり」(声字実相義)だ。
 五大は「地・水・火・風」の自然界と、「空間的広がり」であり、私たちが生きている森羅万象世界を構成するものとなる。
 空海は、「五大はすなわちこれ声の本体」とも述べ、つまり、声こそが、森羅万象世界を構成するものたちの本体とみなしている。
 響きとは声響であり、これは、秘められた声に対する呼応と言い換えることができる。
 石や樹木は、沈黙しているのではなく、声を放っている。だからこそ石工は、自らの計画設計図をもたずに、石の声に耳を傾けて、石がどこに行きたいかを聞き分けて石垣を作り、宮大工もまた同じように樹木の声に耳を傾けて仕事をする。
 そのように物が放つ声と自分の心や身体を呼応させるのが匠の仕事である。
 「十界に言語を具す」の十界というのは、金剛経曼陀羅で示されるような人間の心の段階を表しており、それぞれの段階に応じて異なる言葉があるが、真言以外の9界の言葉には、「妄語」が含まれていると空海は指摘する。
 そして真言とは、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧の言葉であるから、経典ではなく自分自身の修行を通じて、自分自身の内側に見出さなければならない。だから空海は、その真言への道筋を説く『理趣釈経』を最澄に貸さなかった。
 この経典の言葉は、修行を通じて真理を体得したものにしか真意は伝わらないからだ。
 「六塵ことごとく文字なり」の六塵は、 目・耳・鼻・舌・身・意の六根に受ける 「色・声・香・味・触・法」のこと。
 人間というものは、六根によってモノ・コトをとらえ、それらのイメージを声と字によって表現された世界を生みだし、この言葉によってヒトは世界と結びついているが、肝心なことは、それらの言葉には妄語が含まれているとの自覚が必要である。
 その認識のうえに、「法身はこれ実相なり」と空海は明言する。
 法身とは、私たちが生きている現象世界の背後にある大日如来のことであり、その大日如来の言葉(真言)が、ありのままの真実の姿(実相)を伝えることができると、空海は言葉を結んでいる。
 なかなか難解な言葉だが、実相というのは、目の前の現象の背後にあるエネルギーのようなもので、そのエネルギーを、ありのままに伝えることが重要だということ。
 そのためには、五大という私たちが生きている現象世界の物が放っている響き(声)に耳を傾けることから始めなければいけない。
 密教の修行は、単なる身体トレーニングではなく、万物の声を聞き分けることを目指すことが肝要であり、石壁を作ろうとする人間が、自らが作った設計図を軸にしようとすると、石の声は聞こえないように、自我意識が強いと、万物の声は聞こえない。 
 写真というのは現代社会の産物だが、だとすれば、写真の組み合わせによる響きは、現代社会の曼陀羅になり得るということだ。
 問題は、写真を撮る時に、五大の響きに耳を傾けているのか、そうでなく自己都合によって対象を切り取っているかの違いであり、自己都合というのは、言うまでもなく「十界」に生きる人間のそれぞれの段階による事情によって生じるものだから、妄語が混ざる。
 石工が石の声に耳をすませるように、宮大工が樹木の声に耳をすませるように写真を撮ることができれば、現象世界の背後にある実相を、響き=呼応を通して、ありのまま伝える写真となることができる。
 ポスト構造主義の「個々の現場の問題は、個々において」という概念に基づく自己表現は、それぞれの事情が絡んでくるから、妄語だらけになる必然性がある。
 これを超える知恵が、 1200年前に生きた空海によって、十分すぎるほど考え抜かれていたことに驚きを禁じない。

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