
東京に何かしらの用事で出かける時は、必ず、ピンホールカメラと三脚を持って、用事の前後、歩き回って撮影するようにしている。
ダラダラと歩くのではなく、撮影する意思を持って歩いていると、暑い中、重い荷物を持っていても、あまり疲れを感じない。
ピンホールカメラなので、狙った獲物を撃つ(shoot)ことはできないので、場の空気を取り込むような感覚で、三脚を設置して針穴を開放している。
今のところ、東京の撮影をよく行っている写真家のように、ディティールを切り取るという感覚ではなく、大きな全体と向かい合っているような感覚だ。
古代世界において8年間も、ひたすらゾーン状態で向こう側へ分け入っていたので、東京においても、それなりの時間がかかるだろう。
しかし、それでも、古代世界と東京の光景とのあいだに、大きな差を感じなくなっていて、気持ちの切替のようなものは必要ないから、意外と時間がかからないかもしれない。
針穴の大きさは0.2mmしかなく、この極小の穴を通る光が、レンズ通さないのに、きちんと像を結ぶ。そのことじたいが、とても不思議なことに思われる。
東京というのは、人間自身の手で作り上げた人工世界なのだけれど、そもそも、なぜ人間が生まれて死んでいくかもよくわからないし、どういう力が、そうしたことを行わせているかもわからないわけで、人間の人工世界もまた、宇宙の一つの光景としか言いようがないが、最近、私がピンホールカメラで撮っている東京の写真について、写真家の小池英文さんが、私自身がすっかりと忘れていたことを指摘してくれた。
「スカイツリーであったり、高層ビルであったり、焼却炉(池袋の)の煙突であったり、天を指す人工物が多く写っているのが何かを示唆しているようで、つい魅入ってしまいます。日野啓三氏もたしか天と地を結ぶものについてたびたび言及されていたように記憶しています。東京の中に潜む古代性や懐かしさに佐伯さんが没入していくのは、まさに必然だったと強く感じる次第です」。
まさにそうで、日野さんは、1970年代から80年代にかけて東京を舞台に都市小説を書き続けていたが、1990年代、癌の再発のたびに慶応病院に入院し、その病室から東京タワーが見えていたのだが、「死」に向き合うピンと張り詰めた神経で、世界と対峙しながら、記憶のなかの天と地を結ぶものに心を寄せていた。
それは、たとえばロシアの荒野に、ある一定の距離で立っている小さいな教会の尖塔であった。過酷な旅を続ける巡礼者にとって、地平線の向こうに、その教会の尖塔が見える時、どんなに心が慰められることか。
日野さんは、病床のなかで、癌という病にうちひしがれてはいなかった。むしろ、死を間近に感じることを力にして、創作意欲は、さらに増していた。
そして、自分自身が、世界の全てとつながっていて、この時空の中で生かされているという安らいだ感覚を抱いていた。
そうした心境のなかで、日野さんは、天と地を結ぶものから、遥かなるものの呼ぶ声を聞いていたのだろう。
私は、東京の写真を撮り始めてから、小池さんに指摘されるまで、すっかりとそのことを忘れていたのだが、写真は絵画と違ってシャッターを切れば写る。それはつまりどの光景に対して心が反応するのかを表しているだけだと言える。
ピンホールカメラの場合も、どの光景に心が反応して三脚を設置するかで決まってくるが、確かに改めて振り返ると、私は炎天下の街を歩きながら、天を指す人工物でない場合でも、空と人工物の境界に心を向けているという気がする。
都市のストリート写真を撮っている人の写真でよくあるような、地面や建物の隙間に目を凝らす感覚が、今のところ、私にはない。
現時点では、低い階層の建物が並ぶ街よりも高いビルが立ち並ぶようなところの方が胸が騒ぐ。
昔、ヨーロッパから日本に帰ってきた時に、真っ先に感じたことは、日本というのは何と平坦なんだという印象だった。
ヨーロッパの光景が垂直的なのに対して、日本は水平的で、どこまでもダラダラと続いていく。その単調さが、退屈にさえ思えた。
東京の街中で、なぜ空と人工物の境界に心が向くのか。
生理的に自分が高い建物が好きなわけではなく、むしろ高所恐怖症なため苦手であり、タワーマンションになどに住むことは全く考えられない。
私は、高さに惹かれているのではなく、その垂直性に対して、心が反応しているように思える。
その垂直性が、ここではないどこかを指向する心とつながっているような感覚。
特に垂直の建物でなくても、ここではないどこかへの扉を感じさせるような光景には心が動く。
それは現実逃避の心の現れというよりは、限定的な世界への忌避反応のような気がする。
テレビニュースのキャスターなどが典型的だが、決まり切ったことを、ただ伝えるだけのことには、生理的にうんざりする。もちろん同じことを繰り返しながら、次第に深まっていくというものもあるのだけれど、それとの違いは明確で、想像力に働きかける何かが、どれだけ備わっているかによって異なってくる。
けっきょく人間にとって、想像力こそが、生命力なのではないかと思う。
石器時代の人間が作り上げた石器にしても、単に実用性だけを目指していたわけではないことは、スティーブン・ミズンが、『心の先史時代』という本の中で指摘している。
縄文時代、八ヶ岳や神津島の黒曜石が、日本各地に流通していたのは、この地域の黒曜石が普通の黒曜石のように黒いのではなく、乳白の紋様があるゆえだった。
実用性だけに適した黒曜石ならどこにでもある。縄文人は、想像力に働きかけてくる乳白の黒曜石を特別なものと感じ、敢えて、遠方から取り寄せていたのだ。
写りすぎる写真が溢れかえる時代に、私の心がピンホール写真に向いているのも、そうした縄文人の感覚と、さほど大きな違いはない。そして垂直にそびえ立つ人工物と空の間に感じる神性。この言葉から、荘子の言葉を私は連想する。
日野啓三さんが、荘子の言葉を深く愛していたことを、今あらためて思い出し、自分も影響を受けていることを実感する。
その荘子の言葉は、こういうものだ。
「万物には生があり、死があり、世に現れ出でて、消え去る。その入出の形を見ることはできない。万物を出入りさせる道があっても、それがどのように行われているかわからない。そのわからないところを「天門」と呼ぶ。門があるわけではなく、有ること無し、即ち、無である。万物の存在は無から出てくる。聖人はここに身をひそめている。(庚桑楚篇第二十三 荘子)
垂直にそびえ立つ人工物は、その天門である無の空間を指しているようにも感じられる。つまり、万物が、そこから出てきて、そこに還っていくところ。
一般に、大地が、万物を生み出し、万物が還っていくところという認識をもたれているが、その大地すら、無から生じている。
これは仏教の空の思想にも通じるのだが、数日前に書いた古事記の冒頭のアメノミナカヌシ が、それに該当する。
この古事記が創造された時代の持統天皇が、大王として初めて火葬とされたのも、この空の思想からきていると思われる。
したがって、古事記冒頭の、「あめつち初めて 、おこりし時」というのは、まさに、荘子が言う「天門」が開かれた時ということになる。
だから天門を指差すことは、根元の根元へと思いを馳せることでもある。
荘子は、妻が亡くなった時も、最初は悲しみに打ちひしがれたが、このように悟った。
「その始まりをよく考えてみると、もともとは、生命も含めて全ての形がなかった。おぼろな状態の中で混じりあっていたものから、やがて変化して気ができ、気が変化して形ができ、形が変化して生命ができた。そして、また変化して死へと帰ってゆく。これは春夏秋冬の四季のめぐりと同じことを、くりかえしている。人(妻)が大きな天地の部屋で安らかに眠ろうとしているのに、私がそれを追いかけて大声をはりあげて泣き叫ぶのは、運命の道理に通じないことだと思い、泣き叫ぶのをやめた。」
なるほど、私がピンホールカメラで撮る東京には、この「天門」への潜在的な思いと、変化の途上でしかない儚い人間存在が、重なっているということなのかもしれない。
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