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第1486回 人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代を生き抜く力(1)。

7月19日、「過去最大のIT障害」とされる世界的なシステム障害が起きた。
 空港や銀行がストップ…医療システムや緊急通報まで大混乱。
 このシステム障害は、ウィンドウズパソコンに搭載したセキュリティソフトが原因で、ソフトが自動でアップデートされた際に不具合が含まれていたものとみられている。そのセキュリティソフトを開発した「クラウドストライク社」は、セキュリティソフトの世界シェアが18%で、世界一。
 パソコンのウィンドウズソフトは、今だにシェア世界一で72.12%、二位のアップルの15.42%を大きく引き離しているが、この二社で世界中のパソコンのOSソフトの90%近くを支配している。 
 クラウドに関しては、アマゾンが31%、マイクロソフトは24%、Googleは11%で、上位3社のシェアの合計は67%。
 パソコンとクラウドの両方におけるマイクロソフトの世界的な支配力と影響力は、圧倒的だ。
 このマイクロソフトは、巨額の資金を人工知能研究のオープンAIに注ぎ込んでおり、その研究成果を、どこよりも優先的に自社のシステムに取り込む権利があると言われる。
 今回はセキュリティソフトの不具合で世界中が大混乱に陥ったが、たった一社の責任と存在感と影響力が、これほど大きい構造にもかかわらず、世界は、「多様化の時代」などと言っている。
 その実は、人類史上稀にみる世界的規模の画一化、標準化、規格化の時代に、私たちは生きている。
 そして、この規格化されたコンピューターネットワークシステムの中に織り込まれていく人工知能は、画一化、標準化、規格化を、よりいっそう厳密なものにしていくことにつながるだろう。
 セキュリティソフトの不具合一つで世界中が大混乱に陥るというのは、あらゆるシステムが、極めて厳密に設定された規格と標準によって結び付けられているからだ。軍隊のように厳格に統制管理されており、「気まぐれに、こういうことをやってみました」などという自由は、絶対に許されない世界。当然ながら、イレギュラーなものは、排除される。
 こうした時代に、これらのシステムと無関係に生きていくことはできないが、せめて依存状態にならないように気をつけておかなかればならない。
 スマホを無くしたらパニックになったり、ハードディスクが壊れたら、修理業社の言いなりの金額を払うことになったり。
 「生き方は一つではない」とか「どうにでも生きていける」くらいの余裕の幅を心に持っていなければ、時代が危険な方向へと走り出した時に、その流れに巻き込まれるだけの人間になる。
 大きな流れに流されない心の幅というか、別の可能性や異なる眼差しを育てる手助けになるものが、本来は、表現活動の意義だったのではないかと私は思っている。
 しかし、現代アート風表現の流行により、「多くの人がこういう時代だとおおよそ認識している世界」を、わざわざ「こういう世界ですよ」と示す程度のものに対して、「時代を表現している」などと評論家や学芸員が持ち上げて、いろいろな場所で展覧会が開かれている。
 機械文明の弊害、環境破壊の実態、管理社会の歪み、世界の冨の格差、貧困問題や平和の訴え、なんでもいいが、誰でも頭の中に浮かびそうなテーマやコンセプトを、表層的な見せ方の違いで差別化していく表現運動があるが、表層的な見せ方の違いというのは、異なる眼差しにつながるものではない。
 異なる眼差しというのは、別の角度から見たり距離を変えて見ることによる差異ではなく、隠れているものを見抜く眼差しなのだ。
 物事の本質や人の本質というのは、隠れている。
 しかし、時おり、その本質が、何らかの形で表に顕現化することがある。優れた表現者は、その瞬間を見逃さない。なぜ見逃さないかというと、その顕現化の前に、対象の本質における洞察が十分になされているからだ。
 デカルトが「我、考える、ゆえに我あり」と述べた時の「考える」の意味とは、世間に流布するデマの類を一切信じず、自分の頭で世界を理解するための努力をすることであり、そのための方法として、彼は自分の頭で考えて、「方法序説」を書いた。
 この方法序説に基づく思考運動が、世界を細かく分断する分別思考につながってしまったが、分別思考が蔓延した現在における「考える」は、デカルトが示したものだけでは不十分で、自分が向き合っている対象の本質に対する洞察が、より重要になる。
 洞察という「物事の本質を見抜く力」を養うためには経験も重要になる。その経験機会が、社会の中にどれほどあるのか?
 本来は、膨大な時間とエネルギーが費やされる学校教育に、洞察力を育むための経験の場を求めるべきだが、この学校教育じたいが、むしろ子供たちの洞察力を育むことを阻害する原因となっている。
 何かしらの表現物を見て、「考えさせられた」などという言葉が気軽に発せられているのも、現状の学校教育の底の浅さからきている。
 単に物事を比較したり、知らなかったことを知った程度のことは、受験勉強のマークシート試験で複数ある答えの中から正解を一つ選ぶ際に、どれが正しいのだろうと思案することに等しく、それは、どちらが損か得かと計りにかけることと頭の使い方としては同じで、未来に対する備えとしての「考える」ではなく、現状の物事を分別することにすぎない。
 表現物を見る時に、本質を洞察するという思考経験に乏しいと、現状の物事を分別しているだけなのに、「考えさせられた」と言う。
 そして、そういう人は、表現者が本質に向き合って表現しているものを観たり読んだりしても、「わからない」とか、分別癖がついた頭で整理できないゆえに、「重たい」=明快でない=自分とは関係ない、と片付けようとする。
 世界中のシステムが、画一化、標準化、規格化の網の中に人々を捕えていく時代、表からは見えにくい隠れた本質に対する洞察力を準備しておかないと、何か事が起こった時に、周りと一緒になってパニックに陥るだけとなる。
 しかし、表に顕現化するものは、必ず、隠れた領域から生じている。
 優れた表現というのは、その表現に触れる人を、物事の裏側の隠れた領域へと誘う力がある。だから、そういう表現に数多く触れている人は、おそらく、詐欺師に騙されにくいはずだ。
 詐欺師においても、人を騙す前、いろいろな言動に、詐欺師の本質が垣間見えるはずだから。
 そして、あまり触れない方がいい表現というのは、物事の裏側へと人々の心を誘うのではなく、新たな分別へと人々の心をリードするもの。そうした表現に多く触れると、表層的な分別から新しい表層的な分別へと意識が横滑りするだけであり、「新しい出会い」が、分別の選択肢を増やすだけのこととなる。
 それは、いろいろなイベントで多くの人とつながることで自分が豊かになったように錯覚している状況と変わらない。
 重要なことは、出会いによって、自分自身の思考がどれだけ深まっていくかであり、たった一つの芸術表現や人物との出会いが、それを可能にすることがある。
 今日の表現界において、アートフェスティバルのように同時に数多くの表現者の作品に触れることが、良き芸術体験のように思っている人がいるが、数を追うことで、一つひとつとの向き合い方が浅くなっているとしたら、逆効果だ。
 私は、20歳の時、パリに滞在していた半年の間、美術館が無料の水曜日にルーブル美術館に通っていたが、膨大な作品を観て歩くことより、サモトラケのニケ像の前で時間を過ごしていた。
 サモトラケのニケ像は、頭部と両腕がないことで、かえって、天空に飛翔するような恍惚感があって心が奪われた。同じルーブル美術館を代表する展示品で、黄金比で説明されることが多いミロのヴィーナスよりも、私の心の深いところに与えている影響力は大きいと思う。
 自分の心の深いところで感じ取り、自分の頭で洞察する機会が失われていくと、情報に翻弄されるばかりで、騙されやすさから脱却できない循環に陥ることになるし、世界中のシステム障害といった事態に備える準備が、何もできなくなる。

 

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7月27日(土)、28日(日)、京都の松尾大社周辺で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。
 詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/

 

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