以下の内容はhttps://kazetabi.hatenablog.com/より取得しました。


第1669回 目があることで、かえって見失われていることもある。

 家の周辺の桜が、かなり満開に近づいてきた。明日と明後日、京都で、フィールドワークとワークショップを行いますが、京都の桜を愛でるのに、ちょうどいい頃合いだと思う。
 ワークショップを東京と京都で毎月交互に行なって、今回で40回目、毎回、土日の二日行なっているので、述べ日数で80日。不思議なことに、一度も雨に降られたことはない。39度の猛暑日もあれば、氷点下に近い気温の時もあったけれど、雨さえふらなければ、古墳の上にも登りやすい。
 それで毎回、100ページを超える資料を作っていて、終わった後にPDFで参加者に送っている。たぶん、全てに目を通す人は限られているだろうなと思いながら、今も、明日と明後日のために準備している。
 まあ自分の頭の中を整理するという意味合いが強いので、労苦だとはまったく思っていないけれど、なにせ情報量が多すぎ。自分でもそう思う。大学の講義ならは、この一回分を一年かけてやってもいいのではないだろうかと思う時もある。
 なぜそうなってしまうのかというと、全体の一部の断片的情報にしたくなくて、とにかく細部のことが頭に入らなくても、全体像を伝えたいという思いが強いから。大事なのは、情報を覚えることではなく、時空を体感することだから。
 だから、せっかくつくった資料も、大学の講義のように1ページずつ丁寧に解説するといったことはやらない。そんなことやっていたら1日で終わらないから。
 でも、そういう方法で3年半やってきて、本の方も6冊作ってきたのだけれど、同じことを続けてもダメだろうなということも、同時に思っている。
 歴史というものは、丁寧に見ていくと、情報量が膨大にある。それはそうだ。この1年や10年を詳細に記述するだけでも大変なことになるはずで、数十年、数百年という歴史ともなれば、実態は複雑怪奇。だからその反動で、「3日で日本の歴史がわかる」という類の、大雑把すぎる、記号の羅列だけの、義務教育の教科書をさらに薄めただけの本が数多く出版されている。わかったつもりになるには、その程度でいいだろうということで。
 そんなお手軽なものは、歴史の実態とは程遠い。けれども、歴史の実態は、膨大な情報で解説すれば伝わるということでもない。この問題を、どうするのか?
 私の漠然とした実感では、神話というものは、この問題に対する古代人の解答だったのではないかと感じている。
 神話は、事実の列挙でもないし、だからといって作り話でもない。
 歴史の実態を、状況説明の記録という形ではなく、抽象化するという方法で描いている。歴史の真相、そのリアリティだけを伝え残すために。
 しかし、言葉そのものとの付き合い方が、古代人と現代人では異なってしまっているため、現代人は、神話からリアリティを抽出することが難しくなっている。
 現代人は、今、目の前の現実に対して役に立つかどうかの情報を得るために、もしくは、しんどい現実から目を逸らす息抜きのために言葉と付き合うことが多いから。
 話は変わるが、私の古くからの友人で、緑内障のために失明してしまった男がいる。
 時々会って、彼の話を聞くのが面白い。
 目が見えない私の友人は、目が見えないからといって文字と無縁なのではない。
 まず、点字という方法で膨大な読書を行なっている。トルストイの『戦争と平和』を読み終えたとか、今は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の第三巻で、次は、ゲーテを読もうと思う。そして、ニーチェを読んだ方がいいかどうかを私に聞いてきたり、だったらダンテの『神曲』を先に読んだ方がいいんじゃないかといった話をしている。もちろんそこに『源氏物語」なども入ってくるけれど、いわゆる古典を、徹底的に、点字で読んでいく。
 そうすると、人類の意識の深層にある水脈を手で探るような感覚になるらしいのだ。
 点字というのは、指先の感覚を言語化するわけだけれど、慣れる前はものすごく時間がかかるけれど、慣れてくると、文字を目で読むより速くなるようなのだ。文字を読む場合でも速読できる人がいるが、ああいった感じで、一文字ごとに意識が止まらずに、指先でストーリーを掴んでいくらしい。
 この前のワークショップに参加してくれた日本を代表するジャズピアニストが、この話にとても興味を持って、というのは、自分が独学でピアノを覚えて弾いてきた感じが、まさにそうだからだと。私は、10代の頃、わりと算盤を熱心にやっていて、中学生の時には明石市で一番だったのだけれど、算盤の珠を掴む感じもまさしくそうだ。数字を記号的に捉えているのではなく、指先の掴みのボリュームで捉えながら、算盤をやっていない人がみたら奇跡的としか思えない速度で計算できる。暗算も同じ方法で、架空の算盤が頭の中にある。
 左脳と右脳の違いなのかどうかわからないが、視覚からの情報を左脳で整理しながら世界を理解していくのではなく、目をつぶっていても、耳で聞いて、手触りで、算盤の珠を弾いたり、ピアノの鍵盤を自由自在にたたきながら世界を立ち上げることができる。
 そして、盲目の友人は、かつてはプログラマーだったのだけれど、今は、どんな仕事をしているのかというと、議事録を作ること。
 録音テープを耳で聞いて、それを文章化する仕事なのだが、そういう仕事は、目が見えてパソコンのブラインドタッチがものすごく速い人の方が適していると、ふつうには思う。
 目が見えない人で、ふたんは点字で本を読んでいるのに、なぜ、そして、どのように文字打ちができるのか?
 実は、目の見えない人のための文字打ち用の設定が、キーボードできる。
 一般的には、ローマ字入力であれ、カナ入力であれ、日本語の場合は、打ち込んだ後に必ず候補漢字がいくつか表示されて、それを選ぶことになる。
 しかし、目の見えない人は、いくつかの漢字候補から選択することができない。
 そのため、彼の文字打ちは、まず耳で聞いた漢字の「音」の頭を入れる。たとえば、「森林」ならば、「しん」の「し」、その後すぐに、訓読みの「もり」の「も」を打ち込んで変換する。この「音」と「訓」がまったく同じ漢字は存在しないそうだ。
 そして複雑な漢字の場合、部首を打ち込む。竹冠だと、「た」と。そこから、音と訓を組み合わせていくのだという。
 その話を聞くだけでも、目の見える私は頭がこんがってくるのだが、彼は、その一連の流れを高速で行うのだ。つまり全ての漢字が、音と訓で成り立っているということを当たり前のこととして認識し、さらに、草冠なのか、竹冠などかといった造形の部分も、明確に認識できていなければならない。
 実は視覚に頼ってタイプ打ちをしていると、漢字の細部がおぼろげになって実際に手で書けなくなってしまう。
 線の一つひとつを、実際に手を動かしながら書いておかないと、脳は忘れてしまう。
 目に頼ることは、そのように身体性の喪失や、欠如につながり、その分、記憶化が損なわれる。
 私が日本の古層のワークショップを行う際にフィールドワークを重視し、せっかく作った膨大な資料の細部を細かく解説せずに、だいたいの感じで全体像を把握してもらいたいと思っているのも、そうした問題意識があるから。
 知識情報は、左脳領域で整理して覚えても、それはただの情報処理で、理屈だけ覚えて実際の生きる力に結びついてこないし、すぐに脳から消えてしまうという気がするのだ。
 学校教育の歴史のテストのために必死で覚えた年号とか人物名その他のことが、社会に出てからは、すっかり頭から消えているように。
 現代人のような視覚依存ではなく、五感全体で世界を把握していた古代人は、このことを踏まえて、歴史の実態(とくに変化の様相)を伝え残すために、神話を創造したのだと思う。
 だから、その神話や歴史を、左脳で情報整理しても、その真相はわからない。神話や歴史の真相を、体感し、体験するのは、どうすべきなのかを、今、私は考えて実践しなくてはならないと思ってる。
 上述してきた内容を、古事記のなかで象徴的に描いているのは、スサノオによるオオゲツヒメ殺し。
 スサノオを、自然の荒ぶる神だと解釈している専門家も多いのだけれど、そうではなくて、スサノオというのは、文明化された人間世界を象徴する気まぐれ神。
 オオゲツヒメは、とても美味しい料理を作り、それを食べたスサノオは満足していた。
 しかし、スサノオは、その料理が、どのように作られているのか気になって、料理現場を見た。
 そうしたら、オオゲツヒメは、口や尻から出したものを盛り付けていて、スサノオは、そんな汚いものを食べさせたのかと怒り狂い、オオゲツヒメの身体をバラバラに割いて殺してしまった。
 目で見て、汚いという分別も持ったことが、スサノオの虐殺につながった。スサノオの目が見えなかったら、味覚と嗅覚と触覚だけで、十分満足していただろう。
 自然界では、糞は、次の生命の糧であり、綺麗とか汚いという分別はない。スサノオは、現代人のような、反自然で、自分都合の分別で世界を認識する存在を象徴している。
 味覚や嗅覚などは、人間ではなくどんな動物でも、生存に直接結びついているし、野生の世界では、視覚よりも嗅覚や聴覚の方が、人間には想像できないくらい敏感な動物が多い。
 視覚重視は、味覚や嗅覚など他の感覚に比べて、人間の都合分別とつながっている傾向が強い。
 皮肉なことに、その人間の都合分別が、大事なことを見失わせる。
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5月2日(土)、5月3日(日)に、東京でフィールドワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください

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第1668回 単純思考の連鎖と、現代の戦争

 米情報機関トップ、ジョー・ケント氏が、イランとの戦争に反対して辞任した。 彼は、イランの脅威に関してトランプ大統領を誤解させたのはイスラエルとマスコミだったと批判している。
 https://www.cnn.co.jp/usa/35245179.html
 「イランが米国に対する差し迫った脅威であり、今攻撃すれば勝利への明らかな道が開ける」 という単純な筋書きでトランプ大統領を欺いたのだと、ケント氏は、勇気をもって述べている。 
 アメリカやイスラエルの権力機構の裏側には、大統領をどう踊らせるかのシナリオを書く「黒幕」たちが確実に存在するのだろう。彼らは関税問題や戦争において、「こうすれば、こうなる」という極めて単純なプロットを提示し、背後から糸を引く。しかし現実には、事態はそれほど単純には進まず、想定外の悪影響が瞬く間に波及する。
 だから、トランプ大統領は、慌てて方向修正を試みる。
 トランプ氏が不動産ビジネスで成功したのも、幹部から上がってきた案件を「単純思考」で即断即決してきたからではないか。こうした経営手法は、時代の風向きが上昇局面にあるときは爆発的な力を発揮するが、ひとたび風向きが変われば大失敗を招く。彼が大統領という権力の座に就けたのも、個人の能力というよりは、彼を担ぐことで利益を得る勢力が結託し、巧みな情報工作で国民の心を掴んだ結果と言える。
 今回の戦争においても情報戦は続いており、国民は欺かれ続けている。だが、かつての関税問題がそうであったように、経済の実態が国民生活を直撃し始めれば、トランプ氏は再び慌てふためくことになるだろう。現代社会は、個人の想定を遥かに超えたスピードで「負の連鎖」が起きる構造になっているからだ。
 かつて昭和の時代にもオイルショックなどの混乱はあった。しかし、現代のように原油先物価格が短期間でこれほど急激に乱高下するのは、今の時代特有の現象だ。昨年の「トランプ関税」で企業の実態を無視して株価が暴落した際や、今年アンソロピック社のAI「Claude」が発表された際、ソフトウェア企業の株価が一斉に沈んだのも同質の現象である。
 プログラミング業界では以前からノーコード開発が推進されていたが、市場の反応にそんな裏事情は関係ない。今の株式・先物市場には、特定の情報に対して「人間の判断」よりも早く、即時に反応するアルゴリズムが組み込まれている。ネガティブな情報が出た瞬間、システムが連動して一挙に価格を押し下げる。そこには、人間にじっくりと考えさせる「暇」など存在しないのだ。
 トランプ氏の言動が二転三転するのは、本人の気質もさることながら、「こうすれば、こうなる」という従来のシミュレーションが通用しないほど、現代の構造そのものが複雑化・高速化しているからかもしれない。
 私たち一般人も、こうした構造を理解しておかなければ、目の前の現象にただ振り回されることになる。この構造への認識が薄い人は、投資ブームに乗って安易にNISAなどに手を出すのは危うい。この構造下での行動は、想定外のリターンをもたらす可能性もゼロではないが、それ以上に破滅的なリスクを孕んでいるからだ。
 日本が取るべき道は、この構造の外側に立つことである。そのためには、「こうすれば、こうなる」という単純思考を超越しなければならない。
 「今は『こうすれば、こうなる』と単純に考えて動く人が圧倒的に多い。ならば、その結果として次にどのような問題が起きるか」
 そう一歩先を予測する「思考のクッション」を持つことが重要だ。そこに絶対的な正解はないかもしれない。しかし、考えようとする姿勢そのものが、パニックに巻き込まれないための「間合い」を生む。
 現在、多くの人が戦争の早期終結を願っている。それは人として当然の願いだが、そこで思考を止めてしまえば、単純思考の枠から抜け出すことはできない。この戦争を引き起こしたメカニズムが、次にどんな負の連鎖を生むのか。それを問い続けること。
 もちろん、いくら考えても正しい答えは見つからないかもしれない。それでも考え続けることで、次に何かが起きた時、「ああ、こういうことか」と、事態の本質をとらえやすくなるだろう。それが、パニックに陥らない間合いにつながる。
 単純思考が集団パニックへと転化することが最も恐ろしい事態であることは、歴史が証明している。
 中世の魔女狩りやファシズム、学園紛争の内ゲバなど、単純思考が招いた集団パニックの悲劇は枚挙に暇がない。
 現代という高速化した社会において、私たちが最も恐れるべきは、思考を停止した先の「連鎖的なパニック」なのだと思う。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都で、フィールドワークショップを行います。
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第1667回 「時を超える観音——岩倉大雲寺、335年ぶりの秘仏開帳」


 
今年の1月末に京都のフィールドワーク・ワークショップで案内した京都岩倉の大雲寺。
 この寺の十一面観世音菩薩立像は、長らく絶対秘仏でしたが、現在、335年ぶりにご開帳されています。(令和7年10月17日―令和8年4月17日)
 古書によれば、この像は聖武天皇の玉体を映したものとされ、行基が「一刀三礼」の作法で造像したものです。大雲寺が伝えるところによると、奈良の長谷寺の観音像と一木を共にし、姿かたちも同じく、一木造りで製作されたとされます。
 長らく御所に安置されていたものを藤原時平が拝領し、その後、藤原明子(清和天皇の母)が勅により大雲寺に移設・安置したと記録されています。
 ご開帳は残りわずか一ヶ月ほどで、次のご開帳は60年後の予定です。
 ここに紹介している写真は、大雲寺の阿闍梨の許可をいただき、ピンホール写真で撮影したものです。
 特別な照明器具は使わず、仏様の前に三脚を立てさせていただき、室内の自然光で20分ほど露光して撮影しました。
 心配だったのは、ピンホール写真にはファインダーがないため、どこまで写っているかは勘に頼るしかないことです。シャッターも露出計もなく、0.18mmの針穴を通る光をフィルムに感光させるだけで、露光時間の判断も、経験と勘によるほかありません。しかも一度きりの撮影。どう写っているかは、現像が上がるまでわかりません。
 そして、もしダメだったなら、次は60年後。当然ながら、私は生きていません。
 まさに一期一会。結果的に、うまく写っているかどうかという客観的な判断はもはや関係なく、その時、その場の時空の中で最善を果たすという、一度きりの真剣な"おつとめ"でした。
 20分のあいだ、じっと息を殺して待っているだけで、仏の前では、時間の長さをまったく感じませんでした。一時間でも二時間でも、その場でじっと佇んでいられるでしょう。なにせ335年ぶりのご開帳であり、現実の時間を超えた時間が、そこには流れているのです。
 岩倉という場所の特別さは、その名のとおり古代の「磐座(いわくら)」祭祀の名残を伝える場所であり、京都において古代と中世をつなぐ結節点となっていることです。
 10世紀、岩倉の地に大雲寺が築かれた際、磐座祭祀はその境内に取り込まれ、ほぼ同じタイミングでこの秘仏が安置されました。この秘仏は、正真正銘、古代と中世のつなぎ目に位置しているのです。
 大雲寺の創建のきっかけは、971年に比叡山延暦寺で法会があった時、多くの公卿らがこの地から五色の霊雲の立ち昇るのを見たことによります。
 この時、中納言の藤原文範が山を下り、霊雲の立った場所(岩倉)に至ると、石座明神が憑いた老尼と出逢い、この地が観音浄土であると告げられました。このことが天皇の耳に入り、藤原文範によって創建されたのが大雲寺です。
 藤原文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたります。
 そして、この地が観音浄土であるとされたことから、行基作とされる十一面観世音菩薩立像が大雲寺に安置されることになりました。
 十一面観世音菩薩立像は、奈良の長谷寺の観音像と同じく、方形の「大磐石蓋(だいばんじゃくがい)」と呼ばれる岩の上に立っており、磐座に降臨した神のようでもあります。
 この十一面観世音菩薩立像は、通常の観音像と異なり、右手に数珠とともに地蔵菩薩が持つような錫杖(しゃくじょう)を携えています。
 これは、地蔵菩薩と同じく自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他には見られない独特の形式です。

「心の病と、修験の験力」

 源氏物語で、光源氏の最愛の妻・紫の上が少女だった頃、「わらわやみ」を患った光源氏が、治療の加持祈祷を受けるために大雲寺を訪れた時に、二人は出逢いました。
 光源氏には数多くの女性が関わっていましたが、なかでも特に重要なのが紫の上と明石の君です。
 この二人は、光源氏が精神的な危機に陥った時に出逢った女性という点で共通しています。
 明石の君は、光源氏が京都での政争に敗れ、都落ちというかたちで須磨・明石に流れた時に出逢いました。人生のどん底で明石を訪れたことを機に、光源氏は復活します。そして明石の君は光源氏との間に明石の姫君を産み、その姫君が東宮(皇太子)に嫁いだことで、次の天皇に光源氏の血筋が受け継がれます。源氏物語後半の宇治十帖は、この明石の姫君の子供たちが主役です。
 一方、光源氏が逢瀬を重ねた夕顔が六条御息所の怨霊によって光源氏の目の前で亡くなり、傷心のまま訪れた岩倉で、光源氏は幼い紫の上と出逢いました。
 その当時、光源氏は、亡き母の生き写しのような継母・藤壺への恋慕に苦しんでいましたが、紫の上は藤壺と瓜二つでした。後にわかったことですが、紫の上は藤壺の兄・兵部卿宮の娘であり、二人は血縁だったのです。
 光源氏は幼い紫の上を略奪同然に強引に引き取り、理想の女性に育て上げて、生涯愛し続けました。ただ悲しいことに、紫の上には子が生まれず、古代の巫女のように自己犠牲的な生涯を終えます。
 この運命の女性、紫の上と光源氏が出逢った場所が岩倉です。
 そして、その時の光源氏の精神状態は尋常ではありませんでした。
 源氏物語の中で、光源氏は「わらわやみ」に陥っていたと述べられています。
 「わらわやみ」についての解釈はさまざまあり、マラリアという説が専門家の間で通説になっていますが、今日の病名で整理してしまうと、大切なものを見落とす恐れがあります。
 重要なのはその症状です。マラリアは重症化すると、原虫に感染した赤血球が脳の微細な血管に影響を与えて詰まらせ、精神的な異常や錯乱、すなわち「気がふれる」ような状態を引き起こすことがあります。
 具体的には、意識が混濁して時間・場所・人の認識ができなくなる、実際にはないものが見える、支離滅裂な発言をする、昏睡状態に陥るといった症状です。
 こうした症状は、心の病においても生じることがあります。
 「わらわやみ」に陥っていた時期の光源氏は、夕顔が六条御息所の祟りによって亡くなったショックで寝込んでおり、現代でいう心の病の症状を呈していたのではないかと私は想像します。
 というのも、岩倉の大雲寺は、今もそうですが、紫式部が生きていた時代も、心の病の治療と深く関わりのある場所だったからです。
 大雲寺に隣接する場所には冷泉天皇の皇后だった昌子内親王の御陵が築かれていますが、冷泉天皇は在位わずか2年(967―969年)で譲位しました。その理由は心の病だったとされます。夫の病からの回復を願ってか、昌子内親王は岩倉の大雲寺に通い続け、この場所に観音院を創建しています。
 大雲寺の十一面観音像が手に持つ錫杖は、修験者を象徴する持ち物でもあります。
 修験とは、日本独自の実践宗教です。
 「山」という他界に身を投じ、過酷な修行を通じて「験力(げんりき)」という霊的なパワーを獲得することを目指します。この修行によって得た験力を、里に降りて加持祈祷という形で人々に還元しました。
 「加持祈祷」とは、仏の慈悲の力が人々に注がれ(加)、人々がそれをしっかりと受け止める(持)ことを指しますが、病気平癒・安産・雨乞い・怨霊退散など、現実世界の具体的な問題を解決するための「実利的な儀式」です。
 この加持祈祷を「実際に効くもの」にするためには、祈祷師自身の精神力や験力が必要だと考えられました。
 「わらわやみ」に陥っていた光源氏も、加持祈祷による治癒を求めて岩倉を訪れ、そこで紫の上と出逢ったのです。

「現世の囚われからの救いと、巫女の霊性」

 なぜ大雲寺が、心の病と深く関わることになったのか。
 それは、ここが古代の磐座祭祀の痕跡を残す場所だったからではないでしょうか。

山住神社。京都岩倉の原始の磐座祭祀跡。

 古代の磐座祭祀の要にいたのが巫女(シャーマン)です。巫女の神がかった状態は、「わらわやみ」=「気がふれる」ような状態と重なります。
 巫女の神がかりは、現世の常識から見れば「異常」ですが、それは現実世界のしがらみを一掃し、別の世界へアクセスする行為でもあります。
 現実の枠組みに囚われることで生じるのが「心の病」であるならば、その枠組みを外側から相対化し俯瞰する「別の視点(メタ認知)」を持つことこそが、回復への道ではないでしょうか。
 自分が落ち込んでいる世界だけが世界の全てではないと、リアリティをもって体感することは、魂の再生につながります。
 夕顔は六条御息所の祟りで死んでしまいました。光源氏は、自分が他の女性に心を向けることで六条御息所が苦しんでいたことを知っていたため、夕顔の死は自分に原因があると理解していました。
 さらに、光源氏が次から次へと女性を求めるのは、母の喪失という心の隙間を埋めたいためであり、その欲求は、父の妻となった藤壺と結ばれるという背徳行為にまで及んでしまいます。
 光源氏は、こうした出口の見えない暗い現実から抜け出す回路を、岩倉での紫の上との出逢いに見出しました。この少女を、自分の手で理想の女性に育てるのだと。
 まさに、もう一つの世界への入り口が、ここにありました。
 紫式部が、光源氏と少女だった紫の上の出逢いの場を岩倉の大雲寺に設定したのは、何かしらの確かな意図があってのことと思われます。
 光源氏は、まだ幼かった紫の上を連れ帰りました。拉致同然のその行為は、一種の「神隠し」です。
 紫の上は、光源氏の奔放な女性関係に苦しみながらも、表面的には嫉妬を抑え、誰に対しても寛容で気高く振る舞いました。生涯、自分の自我を押し殺して生きたのです。

「紫の上が背負った悲劇性と、魂の永遠性」

 紫の上の最大の苦悩は、子供が産まれなかったことです。
 光源氏が岩倉で出逢った紫の上に子が産まれないという物語の設定は、紫の上が光源氏にとっての巫女だからです。紫の上は、光源氏の叶わぬ思慕をおろす依代でした。そして巫女は生贄でもあります。
 自分の子を持たない紫の上は、さらに光源氏の意向で明石の姫君の教育係となります。光源氏に深く愛され信頼されていても、紫の上は「正当な秩序の外の存在」でしかなかったのです。
 光源氏が紫の上を六条院の春の館に住まわせたように、紫の上には光源氏と出逢った時から、桜の季節のイメージが重ねられています。
 桜と巫女は、日本の精神史において深く重なり合っており、いずれも神を招き、神を依りつかせるものです。
 さらに、桜は古来、死者の魂が集まる場所、あるいは異界への入り口とも考えられてきました。桜の下で行われる宴(花見)は、もともと死者の魂を慰め、その生命力を取り込む儀式的な側面を持ちます。これは、巫女の役割に通じます。
 巫女が「生者の世界」と「死者(神)の世界」の境界に立つのと同様に、桜もまた冬(死)から春(生)への転換における「境界の象徴」なのです。
 紫の上が子を産めず早世していく運命は、実を結ぶことよりも「咲くこと(神の依り代であること)」に全霊を捧げた、巫女的な生涯を感じさせます。
 光源氏が紫の上と出逢った場所は、その当時から、心の病を治癒するための加持祈祷の聖域でした。
 心の病とは、現世社会の閉塞的な枠組みが世界の全てであるかのような思い込みから生じやすく、そこでの軋轢や葛藤が心に大きな負荷をかけます。
 人間はいつの時代も、自分の見ている景色こそが「現実」だと思いがちです。しかし、それは常に全体の一側面に過ぎません。
 岩倉は平安京の中心からは離れており、異郷との境界でした。それは地理的なことだけでなく、歴史的にもそうだったと思われます。
 すなわち岩倉は、過去の時間と今の時間が重なり合う場所。そのような場所では、自分が生きている現実を相対化し、俯瞰する眼差しを得やすい。
 大雲寺の境内に磐座神社が祀られていることは、まさしく過去と現在の時間の重なりを象徴しています。
 魂の再生とは、俗世の価値観にどっぷり浸かっている時には見えなかった、別の「世界」の在り方をリアルに感じ取ることでもあります。
 現在、大雲寺で335年ぶりにご開帳されている十一面観音像は、その長い歳月のあいだ、人の目に触れることなく、しかし確かにそこに存在し続けてきました。
 今、目の前に見える現象だけが、世界の全てではないし、本質でもない。
 世界の本質は、はるかなる時間を超えて、人々の心に届くものの中に宿っています。

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第1666回 「布の裏側をなぞる――AIの時代に歴史の実質を問う」

はじめに――「実質」が問われる時代へ

 AIは、単に便利なツールではなく、社会の土台そのものを入れ替え、人間の役割そのものを問い直す存在だと言われます。 
 既存の知識を詰め込むだけの義務教育や、就職のために大学へ進学するという発想は、完全に時代遅れになります。
  既存の情報を整理したり動かすのではなく、新たな知見を加えていくことだけが、情報分野において人間に残される領域です。しかしそれさえも瞬時にAIに取り込まれていく。それでもなお、さらなる未知へと向かい続ける好奇心こそが、生きることの「面白さ」の源泉であり、人間の存在証明になるのかもしれません。
  そして、人間の存在証明は、もはやステイタスや収入の大小といった情報上での比較ではなく、実質的にどうなのかが問われるようになるのでしょう。実質が伴わない情報武装や情報操作で通用していた時代は、終わりを迎えます。 
 そして「実質的なアプローチ」とはいったいどういうことなのか。この問いが、これからの時代、ますます重要になってくるでしょう。
 前置きが長くなりましたが、人間という存在を深く考察するうえで、歴史を無視することはできません。
 そして歴史を探求するうえで「実質的なアプローチ」をとるということは、「既存の権威の正統性」に惑わされず、当時の人間が直面していた「生存の条件」と「物理的な痕跡」から、逆説的に真実をあぶり出す作業だと私は考えます。
 歴史の実質的な探求とは、歴史という一枚の完成された「布」を眺めるだけでなく、その裏側の「糸の絡まり」を指でなぞる作業とも言えます。どの糸がどの糸と交差し、どこで結び目を作ったのか。裏側の生々しい手の跡を辿ることではじめて、歴史は今を生きる自分にとって実質的なものになります。

 

歴史の「布」の裏側をなぞるとはどういうことか

  1. 歴史を動かす力として見逃してはならないのは、「資源と移動」です。「この場所を押さえれば、何が可能になるのか」という、当時のロジスティクス(情報・ヒト・モノの流れのマネジメント)の急所を、地図から実質的に読み解くことが必要です。

  2. 特定の氏族が力を持った理由は、彼らが「特別な血筋」だったからではありません。「他者が持たない知恵や技術」を備えていたのは誰かという実質的な視点が欠けると、歴史認識は誤ってしまいます。

  3. 神話とは、単なる過去の記録でも権力者に都合よく作られた話でもなく、時代の変化が起きた後に、変化前と変化後の時代をメタ認知する視座から描かれたものです。大きな社会の変化にはいつの時代も産業構造の転換が関わっており、それは人間の意識の変化につながります。そうした変化をメタ認知することが、行き過ぎた行為へのブレーキにもなります。神話の創作者は、そうした自浄の力を神話に込めています。

  4. 古代における勢力の変遷は、全滅か勝利かという二択ではなく、懐柔や「婚姻による統合」があります。その際、いかにして異能を自らの懐に取り込めるかが命運を分けました。衝突と対立の継続は、互いの消耗にしかつながらないからです。

ここまでは総論ですが、ここからが各論です。 

新興住宅地に埋もれた日本の古層――狛江の古墳群の謎

土屋塚古墳(東京都狛江市)

 日本の歴史の構造を考えるうえで極めて重要な鍵が、新興住宅地の中に埋没しています。その典型的な場所が、東京都狛江市です。 
 日本国内には16万基の古墳があると言われます。古墳時代から現在まで1500年を超える歳月のなかで、古墳が最も激しく破壊されたのは戦後であり、この時代は、日本史の中で最も過去と断絶された時代と言っていいでしょう。 
 過去がわからなくなると、時代が変わっても変わることのない普遍性もわからなくなります。 
 東京都狛江市は、「狛江百塚」と言われるほど数多くの古墳が築かれた場所で、かつては70基ほどの古墳が存在しましたが、宅地造成などによってその大半が破壊されました。
 しかも古墳の大半は5世紀から6世紀初頭に集中しており、この約100年のあいだ、一大勢力がここを拠点にしていたと考えられます。
  狛江の古墳群は日本の古層を考えるうえで極めて重要ですが、この古墳群の謎を解く鍵が、この古墳群で最大級の亀塚古墳です。全長42m、高さ7mを誇る帆立貝形古墳で、5世紀末の築造です。  

亀塚古墳(東京都狛江市)

 この古墳は上下に重なる2つの木炭槨と一つの石棺の埋蔵施設を持ちます。上の木炭槨からは金銅装毛彫金具の一部が見つかっています。金箔が貼られた厚さ0.3mmほどの銅板に、小落差模様や人物像、龍、麒麟といった図像が点刻されており、それらが高句麗の古墳石室内の壁画と類似していることが注目されました。  
 下の木炭槨からは、後漢(西暦25年〜220年)製造の神人歌舞画像鏡が出土しています。同じ鋳型から作られたものが、京田辺市のトヅカ古墳、伝埼玉県秋山古墳群、大阪府の郡山西塚古墳、伝大阪府長持山古墳、福岡県の番塚古墳、岡山県の朱千駄古墳などからも出土しており、いずれも5世紀末から6世紀前半のもので、渡来系氏族と関わりの深い場所であることが特徴的です。
 この鏡は、南北朝時代の宋(420年〜479年)への朝貢の際の下賜品と考えられています。 
 そのほか鉄製の刀身や大量の鉄鏃、馬具が出土し、円筒埴輪や人物埴輪に加え、馬形埴輪も出土しています。 
 狛江の亀塚古墳は高句麗人が被葬者である可能性が高いのですが、同じ帆立貝形で、これよりも巨大な全長82mの野毛大塚山古墳が、等々力渓谷のそばに築かれています。狛江からは国分寺崖線を東に6kmほどのところです。

野毛大塚山古墳(東京都世田谷区野毛)

 

 野毛大塚山古墳には埋葬用の棺が4基あり、とくに鉄製の武器・武具が多く出土しています。刀剣の関東での副葬は最初期のもので、実用品・儀礼品を含む様々な形の鏃なども出土しています。 
 さらに、革で綴じられた小札の甲冑は国内最古級のものです。小札は騎馬戦に適した動きやすい防具として発達したもので、起源はオリエントにあると推定されます。中国では紀元前5世紀頃の戦国時代以降に発達し、西暦5世紀に騎馬の術とともに日本に伝わったと考えられています。すなわち等々力の野毛大塚山古墳の被葬者は、こうした大陸由来の軍事的装備を日本で最も早い段階に身につけていたことになります。

泉龍寺弁財天池(東京都狛江市)

 等々力渓谷をはじめ、多摩川に沿った国分寺崖線上は湧水が出る場所が多く、縄文時代からの遺跡も数多く残っています。ここを拠点にした勢力が独自に大陸と接点を持っていたのか、あるいは大陸の人々がこの地に入り込んできたのか?

高句麗と倭の衝突、そして東国への馬文化の伝来 

 多摩川流域の狛江や等々力に、高句麗勢力との関わりが見られる帆立貝形古墳が築かれた5世紀を考えるうえで、歴史上の鍵となるのが、高句麗の丸都城近く、鴨緑江河畔に414年に建てられた広開土王碑の記録です。
  この碑には高句麗の歴史だけでなく、三国時代の朝鮮の国際関係、さらに日本(倭)との関係も記述されています。それによると、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出し、400年、404年、407年に高句麗の広開土王によって撃退されたようです。
  400年の記録では、高句麗の歩兵と騎兵合わせて5万の兵の前に倭軍が惨敗したとあります。その頃までの日本列島の古墳からは、馬具や馬の骨がほとんど出土していないため、倭軍は、歩兵主体だったと考えられています。
  高句麗では4世紀の段階では古墳から出土する馬具はまだ限られていましたが、5世紀、倭と戦った好太王の頃から、馬具の副葬は質・量ともに飛躍的に増しました。北部アジアの騎馬民族の影響を受けながら独自の騎馬軍団を形成し始めた頃に、倭と戦ったのです。 
 日本においては、5世紀初頭に築かれた帆立貝形の野毛大塚山古墳からは馬具は出土していませんが、5世紀末に狛江に築かれた帆立貝形の亀塚古墳からは多くの馬具や馬形埴輪が出土しています。 
 そして5世紀後半以降の古墳時代後期において、古墳から出土した馬具の数量では、関東が近畿を圧倒しています。こうした事実から、5世紀初頭に朝鮮半島で高句麗の騎馬戦力の前に惨敗した倭が、その後積極的に馬を導入し、それが東国で顕著に行われたと考えることもできます。
 一方、狛江の亀塚古墳から出土した金銅装毛彫金具が高句麗の古墳装飾と共通していることから、高句麗人が大挙して東国に入り、馬文化もともに伝来したと考えることもできます。
  古墳時代後期、馬具だけでなく甲冑の出土においても関東が近畿を圧倒しており、近畿のヤマト王権が軍事力によって日本各地を統治していたという従来の見方を再考する必要があります。この東国の軍事的優位性の背後に、高句麗系渡来人の存在が見え隠れしているのです。
  

2013年5月『土曜考古』第35号(特集:武器・馬文化)所収
岡安光彦 1986年3月『考古学雑誌』第71巻第4号より

 この問題をさらに検討するうえで鍵となるのが、日本書紀における国譲り神話の記述です。  

星神・天香香背男は高句麗系勢力を象徴するのか

 一般によく知られている国譲り神話は古事記のもので、タケミカヅチが大国主神に国譲りを迫る形をとっています。しかし日本書紀にはこの続きがあり、タケミカヅチが国譲りを迫っても星の神・天香香背男だけは服従しなかったため、織物の神・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わして懐柔したという記述があります。
  鹿島神宮の社伝によると、星神の天香香背男は常陸の大甕を拠点にしていたとされ、現在この場所に鎮座する大甕神社の岩山が、天香香背男の荒魂を鎮めた宿魂岩とされます。 

大甕神社(茨城県日立市)。この岩山が、天香香背男の荒魂を鎮めたとされる宿魂石であり、その山上に建葉槌命を祀る本殿が鎮座している。

 高句麗文化において、星は極めて重要な位置を占めています。高句麗人は北斗七星を北方の守護神として神聖視しており、高句麗の古墳壁画には北斗七星や三宿、太陽(金烏)、月(玉兎)が精緻な天井画として描かれています。これは単なる装飾ではなく、王の権威が宇宙の秩序(星)と直結しているという思想の表れです。 こうしたことから、『日本書紀』の国譲り神話に登場する星神・天香香背男が象徴しているのは、高句麗系渡来人と関わりの深い関東の勢力と洞察することができます。
 続日本紀には、「716年、埼玉県日高市に高麗郡が設けられ、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七か国に居住していた1,799人の高麗人系渡来人が集められた」という記録があります。常陸にも高句麗人がいたというこの記録は、常陸の星神、天香香背男と高句麗の接点となります。
 さらに日本書紀の国譲り神話と重ねて考えられるのが、古代武蔵国における二つの勢力の対立、すなわち「武蔵国造の乱」です。 
 西暦534年頃、武蔵国において笠原使主(かさはらおみ)と小杵(おぎ)が対立し、小杵が上毛野(群馬)の協力を仰いだため、笠原使主は畿内の朝廷に支援を求めて勝利しました。

 その際、笠原使主は四か所を朝廷の屯倉として差し出しました。この四か所が、小杵の拠点であった多摩・横浜・川崎あたりの多摩川流域と、埼玉の比企とされています。

 多摩川流域を拠点とした小杵が協力を求めた上毛野(群馬)は、5世紀から7世紀にかけて東国有数の馬の生産地でした。 
 群馬県高崎市の綿貫観音山古墳からは、東日本屈指の豪華な金銅製馬具なども出土しています。また群馬県には渡来系とされる積石塚古墳(石のみを積み上げたもの)が多く、高崎市の剣崎長瀞西古墳群や下芝谷ツ古墳からは、金製の豪華な装飾品や馬具とともに朝鮮半島系土器が出土しており、渡来系有力者の墓と推測されています。 
 武蔵国造の乱で笠原使主と対立した小杵と上毛野の勢力は、渡来系だった可能性があり、それが日本書紀の国譲り神話で最後まで抵抗した星神・天香香背男と重なってきます。  
 最終的に畿内の朝廷と笠原使主の勢力によって乱は鎮められましたが、笠原使主の勢力の墓が埼玉古墳群だという説があります。 
 埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「杖方人」と刻まれており、これが丈部氏となり、丈部氏は律令体制において武蔵氏となって氷川神社を奉斎し、府中を国府として武蔵国を治めました。 
 668年、高句麗は唐と新羅の連合軍によって滅亡し、宝蔵王の息子・若光に率いられた高句麗の人々が、神奈川の大磯・高麗山の麓に上陸したと伝えられています。
  その後716年、埼玉県日高市に高麗郡が設けられ、七か国に居住していた1,799人の高麗人系渡来人が集められたことが、続日本紀に記録されています。 
 こうして東国の高句麗系勢力は、6世紀初頭に第26代継体天皇が即位してから奈良時代にかけて、畿内を中心とする中央集権的体制に組み込まれていきました。

織物の神による懐柔――「実利・祭祀・婚姻」という政治的統合

  日本書紀の国譲り神話で、高句麗勢力と重なる星神・天香香背男を、織物の神・建葉槌命が懐柔したというくだりは、こうした一連の流れを反映していると思われます。
 だとすれば、織物の神・建葉槌命がいかなる勢力を象徴しているのかという謎が残ります。 
 建葉槌命と同一、あるいは系譜上の連続とされる織物の神が、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)で、この神を祖とするのが額田部宿禰です。 
 日本書紀の国譲りにおいて天香香背男の拠点とされた常陸国の大甕神社は久慈川流域に鎮座していますが、大甕神社から久慈川を西に10kmほど遡ったところが「額田」であり、そこからさらに西に7kmに、常陸国二宮の静神社が鎮座しています。この地は『常陸国風土記』の「静織(しどり)の里」=倭文郷であり、静神社の祭神が、星神の天香香背男を懐柔した織物の神、建葉槌命です。 
 日本書紀の国譲りの主役である二神の聖域のあいだに位置する額田には、天神小屋古墳、富士山古墳、森戸古墳、愛宕山古墳、大宮古墳、伊達古墳、新地古墳など多数の古墳があります。  
 前回の記事でも述べたように、推古天皇の諱が額田部であり、額田部は継体天皇擁立の背後にも存在した勢力です。

(阿蘇のピンク石の切り出し場(熊本県宇土市)。継体天皇と推古天皇の古墳の石棺には、阿蘇のピンク石が使われている。奈良時代の文書『正倉院丹裹文書』の一文には、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という記録があり、阿蘇のピンク石の産地の熊本県宇土に、額田君(ぬかたのきみ)という姓を持つ人物が実在した。)

 ただし武蔵国造の乱が起きた武蔵国においては、額田部氏の痕跡を見つけることができません。
 しかし『先代旧事本紀』『国造本紀』によると、和邇氏の祖・彦国葺命の孫にあたる大真侶古命が成務天皇朝に額田国造に任じられたとあり、これによれば和邇氏と額田部氏は同族ということになり、 そうすると和邇氏の後裔が小野氏ですから、武蔵国一宮が小野神社であるように、武蔵国には小野氏が深く関わっています。 
 小野氏は歴史を通じて「外交」「交渉」「境界の管理」を職能としてきました(小野妹子の遣隋使などはその典型です)。
 武蔵の乱の際、笠原使主が畿内の朝廷に支援を求めたとき、小野氏がこの地に遣わされたと考えられます。そのため武蔵国だけでなく、笠原使主と対立した上毛野(群馬県)の渋川・富岡・藤岡といった地にも小野郷が残っています。 
 奈良時代の律令体制において府中に国府が置かれ、武蔵国の秩序が形成されていきますが、武蔵氏(丈部氏)のもと、多摩川の左岸には武蔵氏(丈部氏)が奉賽する氷川神社が多く築かれ、右岸は武蔵国一宮の小野神社(聖蹟桜ヶ丘)が築かれ、この一帯が小野郷となり、町田市にも小野神社が鎮座します。
 さらに興味深いのは、さいたま市の氷川神社と厚木市の小野神社にはともにアラハバキ神が祀られており、その二つの聖域のあいだは60kmで、その一直線上の真ん中が府中の国府にあたることです。

  アラハバキ神は別名「門客神(もんきゃくじん)」、すなわち門を守る客神です。
 客神とは、新勢力が進出した際にかつての支配勢力が祀っていた「古い神」を指します。時代の転換期において新勢力は旧勢力の神を排除せず、むしろ門の守護を委ねることで霊的な調和を図ったのです。
 アラハバキ神は古事記や日本書紀に登場しない「謎の地主神」であり、しばしば鉄を操る技術神とされます。 また脛巾(はばき)は、もともと足を保護するために巻く布や革(脚絆)のことですが、古代の軍人や騎馬武者にとって機動力を象徴する装備でした。
  すなわちアラハバキ神は、かつての支配勢力が祀っていた「古い神」ですが、その古い勢力とは高句麗である可能性があります。
  アラハバキ神を祀る代表的な聖域は、武蔵国以外では愛知県東部の新城から豊川にかけての地域で、石座(いわくら)神社、砥鹿神社、砥鹿神社の奥宮である本宮山などに祀られています。
 砥鹿神社の東3.5km、本宮山の麓の豊川市と新城市の境界をなす尾根上には、6世紀から7世紀に築かれた総数40基ほどの古墳群があります。 この旗頭山尾根(はたがしらやまおね)古墳群の最大の特徴は、積石塚古墳を多く含むことです。群馬県にも多い積石塚は、上述のように渡来人に関わる古墳との見方があります。
 また 、砥鹿神社の南3.7km、6世紀末に築造された東三河最大級の馬越長火塚古墳の副葬品の馬具には、朝鮮半島から伝わったとみられる「鉄に金メッキを施す」高度な技術が使われていました。
  本宮山をシンボルとする周辺地域は、古代に「穂の国」と呼ばれ、実り豊かな土地でした。6世紀前後の多くの古墳から馬具が出土しており、「鉄と馬」の文化が早くから根付いた地域であったと考えられます。 
 武蔵国の多摩川流域を拠点とした高句麗系の勢力が6世紀から8世紀にかけて中央集権的秩序に組み込まれていったように、愛知県の本宮山周辺も同じ経緯をたどったのでしょう。そしてその過去の痕跡が、両地域において、門を守る客神・アラハバキ神として残されているのです。
「馬」や「鉄」といった強力な戦闘能力を備えた高句麗系勢力を、正面衝突ではなく従わせていくプロセス。それが『日本書紀』で描かれている、織物の神による星神の懐柔です。
  これは単なる武力による制圧ではなく、「実利(経済)」と「祭祀(精神)」と「血(婚姻)」を軸に、彼らの力を国家のインフラへと変換していく、高度な政治的統合でした。
  中央政権は彼らの居住地に「屯倉」を置き、小野氏や額田部氏のような管理官を派遣しました。そして戦いのために使われていた鉄や馬を「農具」や「物流・開墾」の手段へと転換し、経済的な実りへとつなげていく。
 さらに彼らの神をそのままの形で認めつつも「門(境界)」を守る存在へと昇華させる。 そのうえで婚姻によって同一の勢力となる。 このように縦糸と横糸を丁寧に織り込んでいくような、きめ細かな取り組みこそが、織物の神による懐柔という物語に象徴されているのでしょう。

小野神社(神奈川県厚木市)。境内社に、アラハバキ神が祀られている。

おわりに――歴史に向き合うことの意味

  歴史の実態は、強者が弱者を力づくで制圧し、支配し続けてきた結果ではありません。 そうした歴史観は情報として単純化しやすく、だからこそ多くの人が安易に共有し、納得しやすい。
 しかし、誰もが理解しやすい情報は、それを発信する権威によって容易に操作されうるものでもありますし、実際に起きた事件ですが、 考古学的証拠の捏造によっても歴史は書き換えられてしまいます。 
 気をつけなければいけないのは、歴史に関する「正しい情報」を重視しすぎてはいけないことです。
 正しさとは時代環境によって変わるものであり、かつての権威ある歴史家の説が近年の考古学的発見によって覆されたケースは枚挙にいとまがありません。
  歴史に向き合ううえで重要なのは正しさではなく、歴史を通して何を学ぼうとしているかです。 
 そして、どんなに時代環境が変わろうとも変わることのない、人間にとっての普遍性を見出すこと。それこそが、歴史に実質的に向き合うことの意味なのだと、私は思います。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都でワークショップを行います。
*継体天皇の今城塚古墳、樟葉の宮、弟国宮を訪れます。
5月2日(土)、5月3日(日)に、東京でワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/
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第1665回 いつ何が起こるかわからない世界だから。


15年前の3月11日を境に、人生が大きく変わった人は数多くいる。そうした人たちの心の変化や生き方の変化が、少しずつ積み重なって、今後の日本に少なからず影響を与えることになると思う。
 あの震災の後、被災地で多くの人の話を直接お聞きしたが、いつまでも切ない思いが胸の中に残り続けたのは、名取市の閖上で亡くなった一人の方のことだった。
 訪問介護の仕事をされていたその方は、大地震が起き、津波警報が出た時、海岸から遠い場所で仕事をしていた。しかし自宅は海岸の近くにあり、子供たちのことが心配でならなくなった。車を走らせ、自宅へ向かう途中で、津波に巻き込まれた。子供たちは安全な場所に避難していて無事だったが、自分たちを思って亡くなった母親のいない人生を、生きることになってしまった。
 訪問介護をしていた場所にとどまっていれば、命を落とすことはなかった——当事者でない人間は、いくらでもそう言うことができる。しかし、子供たちが心配でならないという、胸を締め付けるような気持ちは、その場にじっととどまることを許さない。人間の心は、そのようにできている。
 それはわかっていても、なんともやりきれない切なさが、自分の中に残り続けた。でも、残り続けるということは、その方の魂が生き続けているということだと思う自分もいる。
 人は、いずれ誰でも死ぬ。生まれたばかりで目も見えず、身体も自分では動かせない赤ん坊が、ぐっすりと眠りながらちゃんと呼吸をしているのを見ると、不思議な気持ちになることがある。生命は驚くべき精密さで機能しているが、ちょっとしたことで、そのまま目覚めないことがあっても、不思議ではないとも思う。
 現代社会は、緻密な論理を駆使したテクノロジーに大いに依存している。けれど日本人は、心のどこかで「とはいえ、いつ何が起こるかわからない」という気持ちを抱えている。だからアメリカ人のように、借金をしてでも消費にお金を使うことはできず、コツコツと貯める人が多い。そのためアメリカ経済は常に活性化し、日本経済は消費が伸びない、などと経済の専門家は解説する。
 東北大震災の後、私は、雑誌『風の旅人』の編集テーマを「震災後の世界」に絞って7冊編み、7冊目の第50号の巻末に次号の告知として「もののあはれ」を掲げた。しかし、できなかった。 
 形あるものはすべて消えゆく。その過程をしみじみと味わい、執着を手放すこと——この物質文明に毒された世界では、大切な理念のように思えなくもない。しかし、それだけでは何かが欠けていると感じた。
 日本文化の軸になってきた「もののあはれ」は、その程度のものではないはずだ。先人たちは、もっと深いところで考えていたのではないか。
 中途半端な気持ちのまま作るのではなく、「もののあはれ」を徹底的に掘り下げる必要がある。それが動機になって、現在まで日本の古層に向き合い続けている。
 この取り組みで私が解き明かしたいのは、歴史の謎ではない。大自然の猛威の前に無力でしかない人間が、それでも尊厳を取り戻すために、先人たちはどのような知恵を持っていたのか——そのことだ。ただ無力感に打ちひしがれるだけでは、ニヒリズムに陥り、無気力になるか頽廃するか、どちらかしかない。そんなところに、美意識は育たない。
 子供たちを思うあまり、あえて海岸線へと向かい、津波に巻き込まれた母親。理性的な人からすれば、賢明な行動をとれなかった人ということになるだろう。しかし、賢明な振る舞いが、後々まで人々の心に残るとは思えない。
 神話や伝承で人々の心を惹きつけるものの大半は悲劇であり、それは賢明さとは真逆の、愚直さや誠実さによるところが多い。神話や伝承の中で、賢明さはしばしば狡さと結びついている。
 「もののあはれ」は、分別で論じるものではなく、生き様で示されるものだ。
 「いつ何が起こるかわからない」世界において、だからといって保身に回るのではなく、何が起きてもじたばたせず、潔く振る舞えるように心を澄ませておくこと。
 千利休が、わがままな権力者だった秀吉から切腹を命じられても怯まなかったのは、そうした心の準備ができていたからだろう。
 いつ死んでもいいような心の準備。「もののあはれ」の文化の真髄は、きっとそこにある。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都で、フィールドワークショップを行います。
5月2日(土)、5月3日(日)に、東京でフィールドワークショップを行います。
お申し込み、詳細は、ホームページアドレスからご確認ください。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/

第1664回 歴史を動かす陰の力

歴史の表舞台に立つのは、常に「王」や「将軍」だ。しかし、王が権力を掌握したり持続させるためには、必ずその背後に、実務的な力を持つ集団組織が必要になる。軍事力だけで広大な地域を統治することは、いつの時代も不可能に近い。
 国家や大企業のトップが「権力者」として可視化される一方で、現実の社会を動かしているのは、しばしば異なる組織・地域・文化の「あいだ」に立つ人々だ。業界をまたぐ調整役、プラットフォームの設計者——彼らは表舞台に立たないが、ネットワークの結節点として、社会の構造を実質的に形成している。
 この構造は、現代に限った話ではない。古代史を丹念に読み解くと、日本の二つの重要な転換点に、表舞台には出ないある勢力の影が、くっきりと浮かび上がってくる。

九州の石が、なぜ大王の棺になったのか

 継体天皇と推古天皇——日本古代史において、いずれも大きな転換点に立った二人だ。
 第26代継体天皇は507年頃に即位した。武烈天皇が子を残さずに亡くなり血統が断絶したため、継体天皇は事実上の初代天皇とも位置づけられる異色の君主だ。
 推古天皇は593年に即位した日本初の女性天皇だ。蘇我氏の傀儡政権とみなされることもあるが、39歳で即位してから35年間、遣隋使の派遣・仏教の振興・17条憲法の制定・冠位十二階の制定など、日本史上重要な政策を次々と実行した。近年では、聖徳太子像の見直しや、蘇我馬子が葛城の領地を求めた際に推古天皇がこれを拒否したという記録などから、推古天皇自身の主体性が再評価されている。
 この二人の石棺が、ともに熊本の宇土の馬門から産出する阿蘇のピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られている。


 継体天皇が即位した西暦500年前後から推古天皇が即位した西暦600年頃まで、畿内の奈良盆地を取り囲む有力豪族の古墳、そして近江の三上山の麓の二基にも、阿蘇のピンク石を石棺の石材として使った古墳がある。興味深いのは、阿蘇のピンク石を使った王の石棺が九州では見られず、主に近畿(中国地方に僅か)に限定されていることだ。産地から遠く離れた場所でのみ、この石材が使われている。

 宮内庁は継体天皇陵を太田茶臼山古墳(茨木市)に治定しているが、考古学的な見地からは、この古墳は継体天皇の時代より100年ほど古い。専門家のあいだでは、約1.6km東の今城塚古墳が真陵と判断されている。
 推古天皇については、『古事記』に「大野岡上」から「科長大陵」への改葬の旨が記されており、最初の陵墓とされる植山古墳(奈良県橿原市)の石棺が、阿蘇のピンク石で作られている。いずれも宮内庁が治定していない古墳が専門家によって真陵と判断され、そこからピンク石の石棺が確認されているのだ。
 なぜ、九州・熊本の阿蘇で産出される石材が、畿内の大王・女王の棺として選ばれたのか。九州の石材を調達し、海路で畿内まで運搬できるほどの、強力なネットワークと実力を持つ集団の存在——そこに謎を解く鍵がある。

「額田部」という名前が結ぶ点と線

 その手がかりは、推古天皇の本名にある。
 推古天皇の諱(いみな)=本名は「額田部(ぬかたべ)」という。通説では、推古天皇の養育に携わった氏族が額田部氏とされているが、古代日本には「母方養育」の慣習があったことから、推古天皇の母・堅塩媛(きたしひめ)の母が額田部氏だった可能性がある。堅塩媛の父は蘇我稲目だが、母親については、どの文献にも記録が残っていない。 
 一般的に蘇我稲目は、娘を欽明天皇に嫁がせたことで実力者になったとされているが、欽明天皇には、堅塩媛の母方の実家の力が必要だったという見方もできる。欽明天皇は、新羅に奪われた任那の奪還を遺言にまで残したほどであり、海の向こうの新羅と渡り合う実践的な力を求めていたからだ。
 この仮説を傍証するのが、欽明天皇の時代(6世紀後半)、出雲(島根県松江市)に築かれた岡田山1号墳から出土した鉄刀の刀身に、「額田部臣(ぬかたべのおみ)」という銀象嵌の銘文が刻まれていたことだ。「臣」は当時の政権内で有力な勢力に与えられた役職名だ。
 出雲は敵国・新羅と対岸の位置にあり、日本の前線基地ともいえる場所だった。額田部氏がその地で「臣」として活動していた事実は、単なる技術集団を超えた政治的・軍事的な役割を示唆している。
 そして、奈良時代の文書『正倉院丹裹文書』の一文には、「肥後国宇土郡大宅郷戸主額田君得万呂…」という記録がある。
 阿蘇のピンク石の産地に近い熊本・宇土に、額田君(ぬかたのきみ)という姓を持つ人物が実在した証拠だ。
 こうして「額田部」「阿蘇のピンク石」「宇土」「出雲(対新羅の前線)」「継体天皇」「推古天皇」という点が、一本の線でつながってくる。

継体天皇の背後にも、額田部氏の影

 継体天皇においても、額田部氏との接点を示す痕跡がある。
 奈良県大和郡山市の額田部には、額田部狐塚古墳がある。この地は、額田部氏の氏寺として知られる額安寺のある場所だ。
 この古墳から出土した埴輪が尾張系であるという点が注目される。継体天皇の最初の妃は尾張目子媛であり、継体天皇の擁立に関わったとされる勢力は尾張・近江・山城・摂津に広がっていた。この系統の埴輪が大和で確認されるのは額田部狐塚古墳が初出とされ、被葬者が継体天皇を支えた人物に連なる可能性が指摘されている。
 継体天皇(507年頃即位)と推古天皇(593年即位)は、時代こそ約80年離れているが、どちらの「背後」にも、額田部氏と思われる痕跡が浮かび上がる。
 興味深いことに、継体天皇が二番目に築いた筒城宮(京田辺)の真南に、額田部氏の氏寺である額安寺があり、一番目の樟葉宮と、三番目の弟国宮の真南に、平群氏と紀氏の共通の祖を祀る平群坐紀氏神社が鎮座している。
 平群氏と紀氏は、婚姻を通じて額田部氏と同族である。

馬・鍛治・水運——三つの実力が示すもの

 額田部氏は、単一の血族集団ではなかった。
『新撰姓氏録』には、5世紀初頭、東漢氏の祖・阿知使主とともに渡来系技術者たちが来日した記録があり、そのなかに額田村主がいた。須恵器の製造や鍛治と深く関連する技術者集団だったと考えられている。
 また、雄略天皇の時代に大臣として活躍した平群真鳥の弟・早良宿禰は、母の氏である額田首を名乗り、生駒で馬を養育して天皇に献上したことで馬工連の姓を賜ったという記録が残っている。これは額田部と平群が婚姻によって同族になっていたことを示しているが、平群氏はさらに海人の紀氏とも同族だ。
 奈良県生駒郡平群町、竜田川沿いには平群坐紀氏神社という名神大社が鎮座し、紀氏の氏神として平群氏の祖・木菟宿禰が祀られている。その近くに築かれた三里古墳(6世紀後半)は、紀氏の拠点・紀ノ川下流域に特徴的な石棚付石室を持つ。
 こうした痕跡から、海人の紀氏・馬飼の平群氏・須恵器と鍛冶の技術を持つ額田部氏は、婚姻を通じて一つのネットワークを形成していたと考えられる。
 馬は軍事力と情報伝達の基盤、鍛治は武器・農具・船具の生産基盤、水運は物流と人的ネットワークの基盤だ。この三つを掌握することは、当時の権力構造において決定的な意味を持つ。
 阿蘇のピンク石を九州から畿内まで運搬するためにも、まさにこの水運ネットワークが不可欠だった。

「仲立ちの神」と「和をもって尊し」

 しかし、額田部氏の本質は「実力」だけではなかった。
『新撰姓氏録』には、摂津国の「額田部宿禰」や「倭文連(しとりのむらじ)」の祖神として、天伊佐布魂命(あめのいさふたまのみこと)が記録されている。この神は機織りの神であり、建葉槌命(たけはずち)と同一、あるいは系譜上の連続とする説がある。
 古事記の国譲りは、広く知られており、大國主命と事代主神が、武甕槌神の前の提言に同意する形をとっている。 
 意外と知られていないのが、日本書紀の国譲り神話では、その続きがあること。武神の武甕槌神でも服従させられなかった星神「香香背男(カガセオ)」を、建葉槌命が屈服させることで、ようやく国譲りが成し遂げられたとされている。

大甕神社(茨城県日立市)。日本書紀の中の国譲りの最終局面は、織物の神であるタケハズチが、星神のカガセオを説得して服従させるのだが、その象徴的舞台が、大甕神社。 この神社の境内には巨大な岩塊があるが、この岩塊が、服従することになったカガセオの荒魂が宿る宿魂岩で、そのてっぺんに、タケハズチを祀る本殿が築かれている。

 軍事力ではなく、織物が縦糸と横糸を結ぶように異なる勢力を結びつける調停の力——それが建葉槌命の象徴だ。歴史的にも、建葉槌命の後裔とされる倭文氏の役割は、揉め事の「仲立ち」だったとされる。
 だとすれば、同じ祖神の系統を持つ額田部氏も、馬・鍛治・水運という実力を背景にしながら、軍事的征圧ではなく調停・仲立ちという方法で秩序を作り上げることを、自らの役割としていたと考えることができる。
 そのことを最も強く示唆するのが、推古天皇の時代に制定された17条憲法の第1条と、第17条だ。
 一曰く、 和をもって尊しとし、むやみに反目し合わないのを教義とせよ。
 十七曰く、人夫の事がらの独断はよくない。
 
丁未の乱—宗教をめぐる争いではなく、独裁と独断を阻止する戦い

 この視点から、587年の「丁未の乱」を読み直すと、新たな意味が見えてくる。
 一般的にこの戦いは、仏教受容を推進する蘇我馬子と、日本古来の神々を重んじる物部守屋の宗教的対立として説明される。しかし、この戦いのきっかけは、物部守屋が支援する穴穂部皇子が、敏達天皇の崩御後に皇后・炊屋姫尊(かしきやひめ)——すなわち額田部皇女、後の推古天皇——を犯そうとしたことだった。
 これは単なる性暴力ではなく、炊屋姫尊の背後にある額田部氏の力を奪い、独裁者になろうとした行動だったと思われる。それゆえ蘇我馬子は「世が乱れる」と憂慮し、物部守屋は穴穂部皇子と連携した。
 仏教をめぐる問題は、単なる宗教上の対立ではなかった。同時代の中国では、北魏から隋へと王朝が変わっていたが、その後の唐も、少数民族の鮮卑族が行政の担い手だった。
 北魏を建国した鮮卑族は、国内の部族間対立を緩和するために仏教を保護し、莫高窟や雲崗・龍門の石窟寺院を築いた。この北魏から唐までが、中国における仏教文化の最盛期であり、「仏の前に平等」という理念が、異なる神々を掲げて対立する勢力の争いを鎮める力として機能した。
 日本においても、「仏の前に平等という理念」を取り入れようとする勢力と、それを拒絶して独裁を目指す勢力との対立——その本質はそこにあった。物部氏と穴穂部皇子が滅ぼされた後、仏教の振興と17条憲法の制定が同時に行われたのは、その帰結だった。

ニニギとコノハナサクヤヒメ——神話が語る統合の理念

 ここで視野をさらに広げると、古代日本の「統合の理念」が神話の形で語られていることに気づく。

 阿蘇のピンク石を産出する熊本の宇土の馬門は、緑川の河口域に位置しており、緑川の上流域には天孫降臨の舞台・高千穂がある。さらに興味深いことに、宇土の馬門、ニニギとコノハナサクヤヒメが出会った場所とされる延岡の笠沙山、二人の陵墓治定地である西都原古墳群、二人を祀る霧島神宮が、地図上に精緻な距離関係で配置されている。
 宇土の馬門から笠沙山・西都原古墳群・霧島神宮までがいずれも93kmであり、西都原古墳群から笠沙山および霧島神宮までがいずれも57kmだ。

 西都原古墳群は日本最大の古墳群で、4世紀初頭から7世紀前半にかけてあらゆる形式の古墳が築かれている。
 コノハナサクヤヒメの陵墓に治定される女狭穂塚(九州最大の前方後円墳、180m)と、ニニギの陵墓に治定される男狭穂塚(日本最大の帆立貝形古墳、175m)は、ほぼ同じ大きさで寄り添うように存在している。

 しかし、帆立貝形古墳という様式は、日本全体を統治する大王の形式とは言いがたい。
 帆立貝形古墳が最も集中する場所は、大阪・仁徳天皇陵を取り囲む小規模古墳群であり、これらは西暦400年代初頭に渡来した技術者集団の族長の墓ではないかとも考えられている。東京の多摩川沿い(高麗人が居住した狛江・等々力渓谷周辺)にも帆立貝形古墳が多く存在する。
 つまり男狭穂塚(西暦400年頃と推定)をニニギの陵墓とすれば、ニニギは5世紀初頭に日本にやってきた渡来系の技術者勢力だという仮説が浮かび上がる。この時代の最大の技術革新は、鉄製品の大量生産を可能にした鋳鉄技術と、それを支える須恵器製造の技術だった。

 ここで、神話の一場面が意味を帯びてくる。コノハナサクヤヒメは、ニニギに「あなたの子であれば、火の中でも無事に産まれる」と言い、炎の中で出産した。
 摂氏1200度で焼き上げる須恵器——「火の中でも壊れず、むしろそこで完成する」という技術の象徴が、この神話に重なる。
 そして神話の核心は、ニニギがコノハナサクヤヒメの子を「自分の子ではない」と疑ったことにある。異なるものの出会いには、軋轢と葛藤があり、それを乗り越える理念と実践が必要になる。西洋哲学でいえばヘーゲルの弁証法——対立する要素の本質を、より高い段階で統合・発展させる「アウフヘーベン」のプロセスだ。
 この理念と実践は、古代日本における問題解決の根本にあった。隼人や蝦夷など、戦いに敗れた側の人々を朝廷の門の守衛とし、祟り神を守護神に転じさせる——対立を融合・統合へと変換する仕組みが、古代日本には意識的に作られていた。
 この理念と実践を最も必要とした時代が、まさに継体天皇と推古天皇の時代だった。継体天皇は、新羅の脅威が高まる中で急遽即位した。推古天皇は、丁未の乱の後の混乱を収拾するために即位した。どちらの時代にも、力による征圧ではなく、異なる勢力を結びつける「統合の理念と実践」が求められていた。

歴史の節目に潜む「見えない力」

 額田部氏が実際にここで述べたような役割を果たしていたかどうかは、現時点では仮説の域を出ない。しかし、馬・鍛治・水運という実力と、仲立ち・調停という機能を併せ持つ集団が、日本古代史の二つの大きな転換点に見え隠れするという構造は、示唆に富む。
「誰が王だったか」を追うだけでは、歴史の実像には迫れない。表には出ないが、異なる勢力・地域・文化のあいだに立ち、物流・情報・技術を掌握することで、実質的に秩序を作り上げていく存在——その力なくして、歴史の転換点は生まれなかったのかもしれない。
「権力者の背後で、誰が何をしていたのか」。この問いを持つことが、歴史を表層から深層へと読み解く、最初の一歩になる。

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 新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
 3月28日(土)、3月29日(日)に、京都で、フィールドワークショップを行います。*継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳、継体天皇が築いた樟葉宮、弟国宮をフィールドワークします。
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第1663回 存在に対する感謝

 本橋成一さんのお別れ会から帰ってくる。
 会場となったポレポレ舎から、帰り際に、『無限抱擁』という写真集をいただく。新装版のようだが、この写真集は保有していて、2004年4月発行の風の旅人の第7号で本橋さんのページを構成した時の何枚かの写真も、ここに含まれている。
 本橋さんとのお付き合いが、この『『無限抱擁』から始まったので、なんとも運命的なものを感じる。
 人の命は永遠というわけにはいかないが、人の魂は、作品を通じて、いつまでも残り続けるということを、あらためて思う。
 というのは、無限抱擁を見ていると、本橋さん内面(魂)が、とてもよく伝わってくるからだ。作品というのは、その人の内面を映す。本橋さんの考え方、感じ方、対象との向き合い方、誠実さ、真心、真摯さ、それらを全て統合したものが「魂」だと思うが、その本橋さんの魂が、『無限抱擁』には、濃密に反映されている。
 世の中には様々なアウトプットが満ち溢れている。コンセプチュアルなもの、自分本位のもの、欺瞞に満ちたもの、それらはすべて、その人自身を反映している。
 SNSの文章やコメントだってそう。発言している内容が正しいとか間違っているかはあまり重要ではなく、伝え方とか、言葉の使い方とか、立ち位置が大事で、日頃、他者を差別的に見ている人や、自己本位の人は、そういうアウトプットになる。
 歴史解釈にしても同じで、他の国の人を差別的に見て、日本人を優秀な民族だと思い込んでいる人は、歴史解釈も、選民主義的なものになる。
 願望として権力志向の人は、歴史を学習する時も、権力者の変遷が目にとまる。
 人に勝つか負けるかに固執している人は、勝者と敗者の関係が歴史だと解釈し、その歴史解釈においても、どちらが正しいかを競い合い、相手に勝ち、やりこめるために、言葉が次第に乱暴になる。邪馬台国が九州にあったか畿内にあったかを論争している人たちの言葉は、とても荒くて、粗い。
 だから、どんなケースでもそうだが、人の意見を聞く時は、その意見が正しいか間違っているかを判断するよりは、意見に反映されている人間の内面に思いを馳せた方がいいかもしれない。これは SNS上の記事に限らず、学者や政治家の意見も同じだ。
 現代社会は、競争社会なので、作品においても、序列をつけることが当たり前になっている。様々な賞や、いいね!の数の競い合いや、評論家の批評など。
 そして、そうした声に影響されてしまって作品を見る人も多い。自分では何も感じないのに、何かの賞を受賞していたり、評論家が褒めていると、自分にはその価値を理解できないのだろうかと悩んだり、売れているというだけで、いい内容に決まっていると思い込んだり。
 しかし、作品と出会うことは、その作品を作った人間と出会うこと。その人間に惹かれたり、影響を受けたり、といったことは、おしなべて個人的で当事者間の体験だ。
 自分の中に準備ができていない時は、うまく出会えていなかったものが、自分の成長に応じて出会えることもあるし、人生の危機や、生老病死の壁にぶつかった時にしか、感じ取れないものもある。
 畢竟、どういう出会いを積み重ねて、自分自身が形成されていくかが重要で、その形成によって、自分のアウトプットが変わってくる。そのアウトプットは、正直に、自分自身を反映する。
 人間付き合いもそうだが、いつ会っても新鮮さを感じたり、味わい深いものを感じる場合は、付き合いは長くなるし、新鮮さもなく、味わい深さもなければ、会うことは義務感でしかない。
 作品だって、何度も見直せるものと、そうでないものがある。
 本橋さんは、チェルノブイリ原発事故の被災地の写真でも、衝撃だけを前面に押し出したものをアウトプットしていない。
 しかし、すべてが、じっくりと心の深いところに語りかけるものであり、いろいろな思いが湧き出てくる。
 本橋さんが、被写体の人たちと深いところで出会ってくれているおかげで、これらの作品を見る私たちも、その人たちと深いところで出会える。
 被写体の人たちにも、本橋さんにも、存在してくれていて、本当に有難うという気持ちになる。
 存在に対する感謝。いずれ死ぬことが宿命の人間にとって、生きることの意味は、究極において、そこにしかないのかもしれない。

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新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで発売しています。
3月28日(土)、3月29日(日)に、京都で、フィールドワークショップを行います。
5月2日(土)、5月3日(日)に、東京でフィールドワークショップを行います。
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