
いまの社会では、能力の有無はずいぶん単純に測られている。
市場で価格がつくか。組織に所属しているか。成果が数値化できるか。
この条件を満たせば「能力がある」とされ、満たさなければ「評価不能」とされる。 履歴書に書けるか。給与が発生するか。評価制度に載るか。
もちろん、これらは重要だ。 だが、本当にそれだけで、人の能力を測っていいのだろうか。
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こういう人たちがいる。
- 三人の子どもを育てながら、寝たきりの高齢者の介護をしている人
- 子どもは二人だが、一人に重い障害があり、日々の生活を破綻させずに回している人
- 予測不能なトラブルが常に起きる環境で、誰も倒れず、事故も起こさず、今日を終わらせている人
これらの人々は、多くの場合「無職」「非就労」と分類される。 履歴書には書けない。給与も発生しない。評価制度もない。
だが、やっていることを冷静に見れば、こうだ。
制約条件が極端に多い。
未解決の許容度がほぼゼロ。
24時間・長期間・中断なし。
マニュアルはなく、状況は常に変わる。
その中で、 事故を起こさず、人を壊さず、日常を破綻させず、 しかも次の日も続けられる状態を保つ。これは、冷静に見れば、かなり高度な運用能力だ。
プロジェクト管理。 リスク管理。 感情労働。 即時判断。 長期視点。多くの paid work(給与が得られる労働)よりも、むしろ難しい場合すらある。
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これらの方々が行っている活動は unpaid work と呼ばれる。 いわゆる家事や育児、介護だ。だが、その中身を丁寧に見ていくと、それが単なる「家の中の作業」ではないことが分かる。
子育て。 掃除。洗濯。クリーニング。アイロン。靴磨き。庭や前庭のケア。 家族の送り出し。子どもの送迎。荷物や郵便物の受け取り、発送。
さらに言えば、家族まわりのあらゆるトラブルシューティング。
親の看護。
ペットの散歩、おもらし、病気対応。
子供の突然の体調不良。
学校や地域との調整。
予定変更への即応。
水回りのトラブル対応。
洗濯機など家電の故障、、、
要するに、生活を破綻させないための全オペレーションだ。

(図:国別・男女別 unpaid work の時間) 安宅和人『シンニホン』(2020)第2章より
実際、OECDのデータを見ると、日本では女性が1日平均224分、男性が41分を unpaid work に費やしている。
女性は男性の5倍以上の時間を、この「評価されない労働」に割いている。しかも日本は、この男女差が国際的に見ても突出して大きい国の一つだ。
この現場は、過酷である。
予測はほぼできない。 想定外は日常茶飯事。マルチタスキングは前提。 ステイクホルダーは非常に多い。 失敗の許容度は極めて低い。
LINEだけでなく、InstagramやX、その他のツールも使いこなす。 学校、保育、地域、医療、家族内の調整を同時に回す。
単なるルーティン業務とは、まったく違う。 冷静に見れば、多くのオフィスワークよりも、 これからの社会で求められるスキルを育てていると言っても不思議ではない。
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にもかかわらず、現実はこうだ。
現在の日本で、これらの unpaid work を担っている人の多くは、子どもを持つ女性である。 そしてこの人たちが、いざ paid work に戻ろうとしたとき、何が起きるか。
ほとんどの場合、その経験は価値として評価されない。 それどころか、「ブランクがある」という理由で、仕事を見つけることすら難しいことが多い。
たとえ、相当にしっかりとした高等教育を受けていても、だ。
この人たちは「子育てをしている」という理由だけで、 保育所に預けられず、就労の機会も閉ざされ、 経験はブランクとして扱われる、という負のサイクルに置かれる。
順序が、逆のはずだ。
なぜ、評価できないのか。 理由はいくつもある。
成果が外から見えにくい。 環境要因が大きく、単純比較ができない。「仕事=賃金」という近代的な前提に強く縛られている。
だが、最大の理由はもっと単純だと思う。
評価する側が、その仕事をやったことがない。
僕自身も含め、その仕事を実際に回した経験がない立場からは、その運用がどれほど高度かは、どうしても見えにくい。
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ここで言いたいのは、 「育児や介護は大変だ」「もっと評価されるべきだ」 という情緒的な話ではない。
問題の本質は、ケアが尊いかどうか、ではない。 社会が何を「能力」と見なしているか、だ。
いまの評価軸が、 市場での価格、組織への所属、成果の数値化 という条件だけに依存しているなら、 それはあまりにも単純すぎる。
どれだけ高度なことをやっていても「評価不能」とされる。 だがそれは、能力がないのではない。 測る物差しが、貧弱なだけではないか。
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ここで、重要な点を一つだけ指摘しておきたい。
unpaid work は、決して一様ではない。
同じ「子育て中」という言葉で括られていても、 置かれている制約条件によって、その運用の難易度は大きく異なる。
子どもの数と年齢構成。
経済的な余裕の有無。
パートナーの有無と関与度。
地域のインフラと支援体制。
親の介護の有無。
子どもや家族の健康状態、障害の有無。
これらが重なるほど、 やっていることの質も、 求められるメンタルの強さも、 文字通り桁が変わる。制約条件が一つ増えるごとに、 運用の難易度は直線的ではなく、 ほぼ指数関数的に跳ね上がるということだ。
だが現状、 こうした差異を区別して評価する仕組みは、ほぼ存在しない。
「子育て中」という一言で括られ、
すべてが「ブランク」として扱われる。
これは、明らかにおかしい。
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では、これからの社会で本当に重要な能力とは何か。それは、不確実性の中で、 制約だらけの条件を引き受け、 破綻させずに、持続させる力ではないだろうか。
皮肉なことに、その能力は、 市場や組織の中よりも、 むしろ unpaid work の現場で鍛えられていることが多い。「仕事をしていない人」を能力の外に置く社会は、 実は、一番重要な能力を見逃している社会なのかもしれない。
日本は、年に120兆円を超える*1社会保障費を使う国だ。 その国が、未来をつくる仕事を担っている人たちを、 制度的に周縁化しているとしたら。それは本当に、健全な福祉国家の姿なのだろうか。
ここで強調しておきたいのは、 これは「福祉を手厚くするかどうか」という話ではない、ということだ。 社会が、どんな能力を見落としているかという、 社会設計の問題だ。
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能力は、存在している。 ただ、まだ名前がついていないだけだ。
拙著『シン・ニホン』では、 日本で才能と情熱を解き放つべき対象として、 女性、シニア層、社会的な分断を受けている貧困層の三つを挙げた。
unpaid work の再評価は、新しい制度をつくることから始まるのではない。すでに行われてきた運用を、運用として見ること。それが最初の一歩ではないだろうか。
評価できていないのは、人ではない。 社会の物差しのほうだ。
ps. 本稿を書いてから数週間後、関連する問いを別の角度から論じた。『閉じる世界と閉じない世界』という文章だ。育児・介護の現場は、条件が毎回変わり、不可逆で、マニュアルのない『閉じない世界』の最前線でもある。そこで培われる知覚は、AIが最も触れにくい領域に属している。それでも見えにくいのは、能力がないからではない。物質に痕跡が残らないからだ。天ぷらや陶芸は、作品という痕跡が残る。育児・介護が育てる知覚は、残らない。見えないのは、物差しの問題であると同時に、痕跡の問題でもある。
*1:一般会計予算以上