
鎮国寺 宗像
Leica M10P, 50mm f/1.4 Summilux ASPH, RAW
前回、failure を「失敗」と訳した瞬間に起きるズレについて書いた。
設計や構造の話が、いつの間にか責任や評価の話に変質してしまう、という違和感の話だ。
ただ、書いてみて見えてきたのは、これは特定の単語の翻訳の問題ではない、ということだった。もっと一般的に、言語がどの粒度の思考を許すか、という話なのだと思う。
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言葉は、意味を運ぶ道具だと考えられがちだ。だが実際には、言葉はそれ以上のものを持っている。それは、
- どこまでを一つとして扱うか、
- 何と何を分けて考えられるか、
- どの段階で評価や判断が入ってくるか、
といった、思考の解像度=粒度そのものだ。
言葉は「意味」だけでなく「粒度」を持っている。粒度の粗い言葉しか持たない領域では、思考も設計も、どうしても粗くなる。
逆に、粒度の細かい言葉を持てば、現象を分離し、局所化し、効果的な設計(design)の道具として扱えるようになる。
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日本語は、とても包容力の高い言語だ。文脈に応じて柔軟に使え、多少定義が曖昧でも会話が成立する。
一方で、その包容力ゆえに、まったく異なる意味合いが、一つの言葉の中に同居しやすい。
たとえば、状態、過程、評価、責任といった、本来は分けて扱うべき概念が、同じ言葉の中で混ざり合ってしまう。前回議論した、failure を「失敗」と訳した瞬間に起きるズレは、その典型例だ。
本来は「想定通りに機能しなかった状態」を指していたはずの言葉が、 日本語にした瞬間、誰が悪かったのか、判断が間違っていたのか、という文脈に引き寄せられてしまう。
ここで起きているのは、意味の誤訳というより、本来は別々に扱えるはずの思考が一塊にされてしまうこと、、すなわち、思考の粒度が押し潰されてしまうことだ。日本語の「包容力」が生む混線である。
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この包容力の高さの一つの背景には、文化的な文脈による言葉の重心の違いがある。
拙著『風の谷という希望』でも触れたが、老子の「自然(じねん)」にルーツを持つ日本語の「自然(しぜん)」は、「生まれること」(natura)を語源に持つ nature とは、まったく異なる背景を持つ言葉だ。したがって「自然に〇〇する」という意味と、"naturally ~" というのはかなり意味合いの異なる言葉になる。
実際、開国の前後で、こうした歴史ある漢語に欧米の近代概念を強引に重ねていったため、必然的に複数の意味的重心を抱え込んでしまった言葉がそれなりにある。その上、「概念」「権利」のように新しく造語した場合には、もともとの漢字のイメージとのズレまで生じ、それが日本語の豊かな幅・柔軟性を生み出している。
文化的な背景が言葉の重心を多層化する。
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設計(design)とは、本来、
- 状態を状態として扱い、
- 過程を過程として観察し、
- 評価や責任とは切り離して
構造を組み立てる行為だ。
しかし、言葉の粒度が粗く、意味重心が複数あると、それらが分離できない。状態を語ったつもりが、いつの間にか評価になり、評価が責任追及に変わる。この瞬間、設計は止まる。 残るのは説明と正当化だけだ。
技術開発、組織運営、教育、災害対応——分野を問わず、「なぜフラットに設計(design)の話ができなくなるのか」を辿ると、多くの場合、この粒度の問題に行き着くのではないだろうか。
言葉の粒度が粗いと、設計はできない。
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英語(を含む欧米言語)を使えば解決する、という話ではない。欧米言語が優れているわけでも、日本語が劣っているわけでもない。問題は、どの言語が、どの粒度の思考を保持できるかだ。
日本語に訳した瞬間に、どうしても粒度が潰れてしまう概念がある。そのとき、欧米言語のまま使うという選択は、思考を簡略化するためではなく、思考の粒度を保つためのものになる。欧米言語を使うことが目的なのではない。
言い換えれば、そこには日本語がまだ獲得していない思考の粒度がある、ということなのかもしれない。
それは、単語が足りない、というより、分けて考える習慣がまだ定着していない、という問題だ。
だからこそ、欧米言語(現在であれば英語)のままで使われる言葉が残り続ける。
そして、そのこと自体が、日本社会がまだ扱いきれていない問いを露呈させている。
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問題は翻訳の正確さではない。 問題は、その言語が、どの粒度の思考を許すかだ。
粒度の粗い言葉しか持たない社会では、粗い設計しかできない。逆に、粒度の細かい言葉を獲得できれば、社会はもっと壊れにくく、部分的に失敗しながらも進めるようになる。言葉は、社会の設計限界を決める。
言葉は単なる表現手段ではない。言葉は、社会がどこまで考え、どこまで設計できるかを定める、思考の器だ。
(参考)