※Disaster-ready の日本語訳を進める中で浮かび上がった、翻訳以前の話です。

Leica M7, 50mm f/1.4 Summilux, RDP III
Mediumで英語の連載を書き、それを日本語に訳す過程で、どうしても引っかかって離れない言葉がある。それが failure だ。
日本語では、ほぼ自動的に「失敗」と訳される。
しかし、この訳語は、今回の Disaster-ready の議論においては、どうにも座りが悪い。
違和感の正体ははっきりしている。 英語の failure と、日本語の「失敗」は、指しているものが違うのだ。
-
英語で failure は、必ずしも誰かの判断ミスを意味しない。
- systems fail
- partial failure
- graceful failure
これらは、工学や設計の文脈ではごく日常的な表現だ。
そこにあるのは、「想定通りに機能しなかった状態」の記述であって、誰が悪かったか、という問いではない。failure は、まず「状態語」なのだ。failure は責任を問わない。
-
一方、日本語の「失敗」はどうか。
「失敗した」と書いた瞬間に、多くの場合、次の問いが自動的に立ち上がる。
- 誰がやったのか
- 判断が悪かったのではないか
- 責任はどこにあるのか
つまり日本語では、状態の話が、ほぼ不可避的に責任の話に変わる。「失敗」は、評価と責任を呼び込むということだ。
これは言葉の問題であると同時に、社会の設計思想の問題でもある。
-
今回書いた Disaster-ready の核心は、単純だ。
問題は、failureを防ぐことではない。
問題は、failureが社会全体の停止に変わらないよう設計することだ。
しかし、ここで failure を「失敗」と訳した瞬間、 この文は別の意味に読まれ始める。
- 失敗は起こしてはいけない
- 起きたなら誰かが責任を取るべき
- だから完璧でなければならない
本来否定しているはずの前提が、言葉によって、こっそり戻ってきてしまう。Disaster-ready が歪む瞬間だ。
-
今回 Disaster-readyの項では、日本語版では failure を原則として「機能不全」と訳し直した。
機能不全は、起きうるものとして扱え、局所化でき、設計によって伝播を止められる。評価や道徳から距離を保った、設計のための言葉だ。
Disaster-ready な社会とは、機能不全が起きない社会ではない。
機能不全が起きても、止まらない社会だ。
-
日本語で failure を語りにくいという事実は、単なる翻訳上の不便ではない。
それは、
- なぜ私たちは「部分的に壊れる」ことを許容しにくいのか
- なぜ完璧でない状態を前提に設計しづらいのか
- なぜ止まるまで走り続けてしまうのか
といった問いと、深くつながっている。
社会は、言葉で設計されている。
そして、言葉は、社会の振る舞いを縛る。
止まらない社会を考えるなら、インフラや制度だけでなく、まず「使っている言葉」から疑ってみる必要があるのではないだろうか?
(参考)本稿の議論を以下のエントリでさらに掘り下げました。
kaz-ataka.hatenablog.com