
海士町 隠岐
Leica M10P, 50mm f/1.4 Summilux ASPH, RAW
先日の講義で学生からもらった質問について、前編に続いて残り4つの問いを考えてみたい。(前編はこちら)
- 「内発的な問い」は、どの瞬間に生まれるのか?
- 教育は、どこまで問いを与え、どこから手放すべきか?
- 不安は「消すべきもの」なのか、「抱えたまま進むもの」なのか?
- 生体験と市場評価(食っていく力)は、どこで接続されるのか?
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自分の心に自然に浮かぶ「内発的な問いを立てよう」と言われることは多い。でも、そんなことを言われても、問いは「立てよう」とした瞬間には、ほとんど生まれることはない。
これが事業だとか社会変革を主語とした課題解決の現場であれば、〇〇を〇〇したい、という目的意識があるので、あるべき姿とのギャップなり、あるべき姿(つまりビジョン)を描くなりという答えを出すべき課題を更に具体化できるが、これは内発的な問いとは言い難いものだ。むしろ、「〇〇を〇〇したい」が内発的な問いに近いだろう。
ではそういうプロジェクト的な世界ではない場合、多くの場合、先にあるのは、違和感、納得できなさ、なんともいえない引っかかり、身体や感情の反応だ。あとから言葉が追いついてきて、「あれは問いだったのか」と気づくものだ。
問いは思考から生まれるのではなく、知覚や感情から遅れて立ち上がるものだ。問いは、思考からではなく「知覚のズレ」から生まれる。
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「教育とは何か」はかなり大きな問いであるため、ここでは割愛するが*1、人を育てる現場、教育現場は天下り式に情報を流し込む場ではない。これが上手い人がすばらしい教育者なわけでもない。
では、教育は問いを与える場だ、と思われがちだが、それは半分しか正しくない。
問いを与えることが必要なフェーズは確かにある。その対象となっているテーマに対して、まだどこに違和感が潜んでいるのかがわからない段階では、確かに「問い」は有効な補助線になる。
しかし、その一人ひとりが、自分なりに違和感を感じ始めた瞬間からは、「問い」を与え続けることは、むしろ思考を奪う行為になる。
良い教育とは、問いを与え続けることではなく、問いを手放しても大丈夫な地点までその一人ひとりを連れて行くことだと思う。
教育は問いを与える仕事ではない。
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不安についても同じことが言える。
不安は「まだ分かっていない」「まだ慣れていない」という知覚のサインだ。なので、これは新しいことに挑戦していることを示す半ばしるしであり、悪いことではない。そもそも新しいことをするときになんの不安も感じないというのは、相当にリスクの高い体質だ。その生存本能があるので、僕らの先祖はうまく生き延びてきた。
したがって、不安を消してから進もうとすると、いつまで経っても進むことができなくなる。多くの人が行動できなくなるのは、不安があるからではなく、不安があっていけないと思っているからだ。
成長している人、挑戦している人は、不安がないひとではない。不安を抱えたまま、小さく進むことに慣れているだけだ。
たとえばあまり慣れないオーディエンスの前で、慣れないテーマで話すことがあったとする。そんな時、なんの不安も、緊張も感じない人が素晴らしい話をすることはあるだろうか。むしろその適度な緊張感が想定外のパフォーマンスを生み出すものだ。
不安は、消すものではない。
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最後に、生体験と世の中、市場の評価の話。ナマの体験そのものが、すぐに市場価値になることはほとんどない。
評価されるのは体験の量ではなく、体験によって、他の人には見えない違いを見分けられるようになったか、言葉になるまえの兆しに気付けるようになったか。
つまり、生体験が世界の見え方の変化に変換されたときに、はじめて価値になる。とはいえ、これが知覚から知性、価値に変わる起点であることには変わりがない。
即物的な効用を求める人は多いが、こと知性に関わることであれば、そんなものはないと思ったほうがいい。ガタガタ言わず、何かが起きるその現場に出向き、そして全身で感じ、人と話し、モノと触れ合ってみることだ。
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学生諸氏からあがってきたこれらの問いはすべて、「何を学ぶか」ではなく、「世界とどう接続するか」という問いだ。
今日、明日で答えが出る必要はない。ただ、この問いをどこかに抱えたまま世界を歩き続けられるかどうかで、数年後、見えてくる景色は確実に変わる。
知性の厚みは、おそらくそういう時間の積み重ねの中で、気づかないうちに、静かに形を持ちはじめるものなのだろう。
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※本稿の英語版を Medium に公開しています。
日本語とは異なる読者を想定し、構成と表現を調整しています。
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*1:これについて興味のある方は、相当に深く掘り下げた近著『風の谷という希望』の第12章 谷をつくる人をつくる、をご参照いただきたい。