この連載では、従来語られてきた「持続可能性(サステナビリティ)」という枠組みを一度外し、社会がそもそも“壊れずに成り立ち続けられるのか(viableであり続けられるのか)”という問いから、社会設計を考え直しています。

Shibuya Station area, Tokyo — ongoing large-scale redevelopment.
Leica M10-P · Summilux-M 50mm f/1.4 ASPH · RAW
※本稿は、Medium連載"Designing for Viability"シリーズ第3弾を、日本語読者向けに翻訳したものです。第2弾(日本語版)はこちら。
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この100年以上、都市集中は「効率性を高めるためのデフォルトの答え」として扱われてきた。
人、資本、知識、インフラ。それらは集中したほうがうまく回るとされてきた。都市は、成長・イノベーション・生産性のエンジンとなった。
この信念は、都市計画だけでなく、経済政策やインフラ投資、さらには「成功した社会とは何か」という私たちの想像するイメージそのものを形作ってきた。
しかし、ここで一つ問いを置いてみたい。
もし、集中が単なる効率化戦略ではなかったとしたら?
もしそれが、システミック・リスクを静かに増幅させる装置でもあったとしたら?
都市集中は、なぜ理にかなってきたのか
誤解のないように言っておきたい。都市集中は、間違いではなかった。
それは非常に現実的で、歴史的に合理的な選択だった。
規模の経済、知識のスピルオーバー、効率的なインフラ提供、シンプルなガバナンス。エネルギーが安く、気候が比較的安定し、不連続な衝撃 (shocks) がまれで局所的だった時代には、集中は驚くほどよく機能した。
そうした条件下では、都市は強かった。
問題は、このロジックが間違っていたことではない。
問題は、その"前提"が静かに賞味期限切れを起こしたことだ。
不連続な衝撃が「例外」ではなくなった時代
いま僕たちが直面しているショックは、性質が違う。
パンデミック、気候変動による災害、エネルギー供給の混乱、老朽化するインフラ、、これらはもはや「たまに起こる例外的事象」ではない。
それらは頻発し、相互に重なり合い、社会システム全体に波及する。その上、国境、産業セクター、制度を越えて伝播していく。
こうした環境下では、密度は別の顔を見せ始める。
密度それ自体がリスクを生み出すわけではない。しかし、系 (system) が動かなくなったときに、密度はリスクを増幅する。
高度に集中したシステムは、強く結合 (couple) される傾向がある。
医療はモビリティに依存し、モビリティはエネルギーに、エネルギーはグローバル・サプライチェーンに、ガバナンスはリアルタイムの調整 (coordination) に依存する。
ひとつの構成要素が崩れると、破綻は急速に、非線形的に連鎖して広がっていく。
かつて効率性を最大化した構造が、今や脆弱性を拡大強化しているのだ。
「構造的ストレステスト」としてのパンデミック
あの歴史的なパンデミックは、現代社会にとって全世界的なストレステストとして機能した。
医療システムは限界まで追い込まれた。モビリティ(移動網)は凍結した。経済活動は停滞した。しかしおそらく最も示唆的だったのは、初期のショックそのものではなく、持続的に対応し続けることの難しさだった。
疲弊、分断、制度的な緊張。
見えてきたのは、単なる準備不足ではなく、より深い構造的な問題だった。ピーク効率のために設計されたシステムの、長期的なストレス下での脆さだ。
問うべきなのは、対応がどれほど英雄的だったかではない。
システムが、パンデミック以前にどれほど脆弱だったかだ。
災害復旧が発するシグナル
同様のパターンは自然災害でも現れる。
高度に集中したシステムでは、複雑性が増すほど復旧が遅れがちになる。調整はより困難になり、依存関係は増え、資源 (resources) はボトルネック化する。
急速な成長を可能にしたまさにその密度が、急速な復旧を妨げることすらある。
結果として、災害対応は終わりなき緊急モードになる。対応は個別・反応的になり、社会は消耗していく。
常に緊急対応によってのみ生き延びる社会は、レジリエントではない。
それは、ただ疲弊しているだけだ。
これは「都会 対 地方」の話ではない
ここまでくると、議論はしばしば「都会 vs. 地方」という対立構図に落ちる。これは間違いだ。
地方は脆弱でありうる。都会はレジリエントでありうる。地理それ自体が問題なのではない。本当の変数は、制約条件下における密度だ。
これは人々が「どこに住むか」の問題ではない。リスクがどのように分散されているか、そして誰がそれを負担しているかという問題だ。
社会が「存続可能」であるとはどういうことか
これは、より根本的な問いに私たちを連れ戻す。
"社会"が存続可能であるとはどういう状態なのか?
存続可能な社会とは、好況期に単に成長する社会ではない。ショックを崩壊せずに吸収でき、尊厳を犠牲にせずに回復でき、英雄的行為をコンスタントに必要とせずに機能できる社会だ。
通常の生活を維持するためだけに、並外れた努力を必要とするシステムは、そのデザインがすでに失敗していることは明らかだ。
都市が生き残ればよいのか、社会が生き残るべきなのか
ここには、あまり語られない倫理的な次元もある。
高度に集中したシステムでは、都市の周縁地域はしばしば「バッファー(緩衝的な地帯)」として扱われる。都市中心がストレス下にあるときに資源、エネルギー、労働力、あるいはレジリエンスを引き出す源としてだ。
都市中心の復旧は、別の場所での長期的な負担を犠牲にして成り立つことがある。
もし都市が生き残っても、社会が分断されるなら、それを本当に成功と呼べるのだろうか?
これは技術的な問いではない。
道徳的な問いであり——社会設計 (design) における選択だ。
次の社会設計の問いへ
もし過度な集中が脆弱性を増幅するなら、代替案は何か?
孤立ではない。
衰退でもない。
都市を放棄することが答えなのではない。
集中・接続性・レジリエンスを、系(system)全体として、どのようにバランスさせるかを問い直すことだ。
僕らに必要なのは、ショックを吸収するだけ十分に「疎」であり、同時に、ほかから切り離されない (remain connected) だけ十分に「開かれた」システムだ。
ここから、次の問いが立ち上がる。
疎でありながら、開かれている。
そのようなシステムを、私たちはどうデザインできるのか?
(次号に続く)
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注)本稿は『風の谷という希望』にまとめたこの8年間の「風の谷をつくる」運動で行ってきた検討、研究に基づいています。詳しくは本書をご覧下さい。