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対岸の誰か

ネガティブに偏っていたときに"すまなかった"と思わない、その友人は私にとってそんな人だ。

それを信頼といえばそれまでで、長く同じ時を過ごしていて、しかしネガティブな自分を後悔しないというのは、それだけで安心感がある。ここまでネガティブに下りていいのだろうかと、探りながら話さなくていいのだから。そういうことならここも同じで、好きなだけネガティブでいることのできる場所である。

年の功ということもあるが、私の親はネガティブをひいきしない。むしろネガティブの扱いが上手い。そんな相手に、私がいつまでもネガティブを流し続けるこはできかねる。ネガティブに覆われると気分が悪くなる、とまで言うのだから特別なときを除いてあるところで止める。幼いころに鬼ごっこで鬼になったことがくやしく、怒りながらその場から走り去っていた親と自分では、そもそも生まれ持った"性質"が違う。

友人はどちらかというとインプットがネガティブだ。しかしアウトプットはそれなりにブレンドされているから少し分けてもらいたいくらいだ。その友人に、同じものを感じるとでもいえようか。

私とその友人の間に川があるとしたら、その川は小川だ。片足でひょいとすぐに飛び越えられる。これが親となると、顔がわかって手を振れるくらいであるが、小舟を漕がないとあちらには渡れない。

その人たちが自分からどう位置しているかを川に見立てただけだが、話す頻度があるわりに離れていると感じるのが親であるなら、たまにしか話さないし会わないのに近いと感じるのは友人だ。それは心の距離とでもいえるかもしれず、どちらが良いとかそういうことでもない。

物理的に顔は見えずとも、小川をはさんで隣にいる友人と、声を出して呼びかければ聞こえる親と。これを読んでいるあなたの姿が、川を隔てて私にも見えるような気がする。




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