人への妬み嫉みや自分への嫌悪を友人に話したのは、相手からどのように自分が見られてもかまわなかったからでもあるし、そのような感情を持つ自分をそのまま受け止めたからでもある。相手の評価を気にするあまり、完璧な人間を演じるのはそろそろ潮どきで、完璧なつもりでもとっくに綻びていたことも相手は気づいていただろう。
妬み嫉みや自分への嫌悪は人として持ってはならず、それらの感情を持った自分をまた嫌悪するやりとりをたどるのは、ほんとうに身体が擦り減ることだ。擦れるだけ擦ってしまった山芋のように、しまいには自分もなくなるとでもいうように。
何かがあるから自分をすべて肯定するとか、何かがないからすべて否定するとか、そういう山の頂と谷の底みたいにどちらかにきっぱり振れる考え方ではなく、頂も底もあって中腹もある山を見ているような気分だ。
妬み嫉みや自分への嫌悪を持っているから谷の底にいることにして、谷の底にいることを相手に知られないために話さずにいても、谷の底にいる自分はいつか誰かに話せるときを待っていた。
話したところで相手に異常に共感を強いることもなくなり、相手には相手の反応があって、それが自分と同じでなくても事実としてそこにあるだけだ。
大人になった、などという表現は合わない気がして、自分が変化したとでも書いておく。