ひどく悲観もしなければひどく楽観もしなかったころ、その鈍さによって私は自分をかばっていた。いや、どこかで、深く入ると良くも悪くも自分がひしゃげてしまうとわかっていたのかもしれない。たとえばこれが思春期にやって来ていたら、とてもではないが私は降参しただろう。中途半端だったがために、大人になってから取り戻しただけとも思われる。
心の体力があるとするならば、いろいろな渦を泳ぎ、それがついてきたと判断したから悲観する才能が花開いたのではないか。また感じる度合いが高いということは、悲観にもより悲観するけれど、楽しいこともより楽しめるということでもある。ひどく悲観しているときも楽しさを楽しめるなら、むしろひどい悲観もありがたい。