財布に入っているカードを、元の場所に戻さずに都度探し回る時間を換算していくとけっこうなものだ。ないなあ、ないなあといっこうに抜け出せない。ごちゃごちゃの財布からカードを出してからレジに並ぶようにしていたが、たまたま並んでから探し始めてまあすぐ見つかるつもりが見つからず、バーコードを読み込むでもなく、値段を伝えられるでもなく、支払うでもない空白ができる。自分はレジでできれば待ちたくはないのに、自分が人に待ってもらう。そしてついに財布の中でのカードをしまう場所を決めた。電子決済が広まっているとはいえ、カードは意外と減らない。
洗濯洗剤は液体を使っているのだが、洗濯機に投入した後のキャップを洗うのが面倒すぎて、そのまま戻していたものの、残っている洗剤が注ぎ口で固まってえらいことになる。成分が石鹸だからそうなるのであって、目に余るくらいになってやれやれときれいにしていたけれど、おそらく投入してすぐにキャップを洗うだけのことだった。
カードの整頓もキャップの掃除も、やらないよりやって満足をする。これからはすぐにカードを取れるし、容器もまあまあ常にきれいである。この状態が続くと満足も続く。この満足を存分に汲んでいると、これが満足なのかとわかる。満足を素通りしていたら満足している自分の気持ちすらわからない。
そのときそのときで満足はするものの、満足はすぐに消えてしまう気がしていたけれど、自分が満足を感じれば満足はそこにあったわけだ。満足を感じてその満足を保つ行動をしたときに、満足は同心円のように広がっていくのだった。
これは、一日の良かったことをあげて、ああ今日も満足だと感じるのとは少し異なる。過去の自分の行動が先につながっていることの証であり、その過去の自分の行動にも満足し、そのまた過去の行動にも満足するという二重三重それ以上の満足である。
満足を繋いでいくためには、満足に存分に満足し、また次も満足であってほしいと欲することだ。あまりに満足だけを目的にすると身を滅ぼしかねないけれど、自分一人でやるなかなかできないことには、満足を続けることの満足を持ってしてかまわない。