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距離感につかれた

どうも毎年同じようなことを言ってる気がするが。

寒さと鬱には相関があると思う。

南国に鬱病の人はいないだろう。(ド偏見)

全部、寒さのせい。

 

 

ライブアイドルの楽しいところの1つに、

「距離感の近さ」というものが挙げられる。

もちろん「アイドル」と「ファン」という一定の線引きを大前提としてのものではあるが、ライブを観るだけではなく、ライブ後の特典会で直接話が出来たりする。

 

この特典会が厄介なのだ。

 

アイドルは、特典会に来てくれたファンの顔と名前を覚えて、何を話したかを記憶して、その人がどんな興味があり、どんな好みなのかを探ろうとする。稀にそういうのは気にしないタイプの人もいるかも知れないが、大半のアイドルはファンをもっと知りたいと思っているはず。

 

なので、当然SNSでの動きも見られている。これは自意識過剰だと言われても構わないのだけれど、「見られていない」と思っているよりは「見られている」意識を持っている方が100万倍良いと思う。

 

しかしながら、その距離感の中にいると、

「ライブには来ていたのに、特典会には来てくれなかったな」とか「今日来るって言ってたのにいなかったな」などと思われるわけである。これは非常につらい。こちらにもそれなりの事情があったりもするわけで。

 

そんなことを考えているうちに、「えーいもうぜんぶやめちゃえー」という思考になりかけている。まあ実際、寒くなると遠征意欲も下がりますし、少なくとも春まではひっそりとするかも知れませんね。ハルニシオンの1周年とか重要なやつは行きたいと思っているけどね。あと12月にYOLOZが仙台にツアーで来るそうなので押さえておいた。1月は長浜瑠花さんの凱旋と。今のところはそんな感じ。

続けること


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あなたは、なにか一つでも「続けていること」はありますか?

 

 

仕事。勉強。部活。趣味。

ジャンルは問わない。期間も、年齢も、性別も関係ない。なんなら「好きかどうか」さえ。

 

 

何事も続けていないと見えないものがあると思う。

続けているから見えにくくなるものもあると思う。

 

 

「石の上にも三年」という諺がある。

古くさいと思われるかも知れないが、これはやはり真理なのだろう。

 

 

少し話は逸れるが、

選択肢は無限にあるように見えるのに、実際に選んでいるのはとても狭くて、小さな、昨日と何ら変わらないものである人が大半なのではないだろうか。

 

 

聴く音楽も、見る動画も、歩く道も、食べるものも、同じだと何となく「安心」するから?

 

 

安心も、もちろん必要なもの。

安心、安定した足場があってこそしっかり立つことが出来る。経済的にも、文化的にも、精神的にもそうだろう。

 

 

ただ、それが自動運転になっていないかという点検は時々した方がいいような気がする。

 

 

時には、バランスを変えてみること、つまりはいつもと違う選択をしてみるということも大事なのではないだろうか、と思う。

 

 

ずっと同じ景色を見ていると、その景色が当たり前になって、その「本当の価値」も分からなくなっていくような。

 

 

また帰ってきたくなったら帰れる場所を用意しておけばいい。それを自分のホームとすればいい。

自分の枠や、視野を広げることはきっとワクワクする。

 

 

「続けること」に話を戻す。

例えば「元気に挨拶をする」だとする。

それを続けることで、周りからの認識も自然と「あの人はいつも元気に挨拶してくれるな」となっていく。逆も然りである。

 

 

すべては繋がっていく。

善き行いは善き人間をつくり、善き人生を引き寄せる。

それは、その人の中に指針があるからこそ出来る生き方。違うと思ったら変えてみてもいい。

結局はどのルートを通ってもあなたの目指すところへ辿り着いている。自分でも気づかないうちに。それが続けるということの答えなのだ。きっと。

何者かになりたい自分を否定しなくていい


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タイトルで今回言いたいことは全部書いてるのであとは余談です。

 

 

 

 

 

 

いちばん昔の記憶は、なんだったろうか。

あの頃、自分は何になりたかったんだろうか。

 

 

実はあまり小さい頃の夢とかは、あったのかも知れないけど覚えていない。忘れてしまった。アンパンマンとか言ってたのかな。

 

覚えている中でいちばん古い記憶でいえば、「新聞記者になりたい」ってのだと思う。

それも、工作の授業だかで「将来の自分」だか「将来の夢」みたいなのを粘土で作る、というものだったと思う。だからなりたいっていうより「なっている自分」の姿を作った。デスクで電話を取って、徳大スクープだ!って喜んでた。いや、スクープは電話で来るもんじゃねえだろ(笑)。

 

 

べつに深く考えてたわけじゃないんだけど、ドラマか何かに影響を受けていたのか、新聞記者かなーって。どんな仕事かもよく分かってなかったけどね。今もよく分からん。

 

 

でもまあ「見えていないことを見えるようにする」とか「広く伝える」っていう意味では、それが仕事となるかどうかはともかくとして、これから一生そういうことをやってくんだろうなーとは思っている。言葉を使って。言葉を磨いて。

 

 

 

何周も回って、結局そこに帰ってくるんだなあ。

 

 

 

 

 

【今日の1曲】

タイトル未定「壊せ」

AI談義・2

「趣味はChatGPTで小説を書くことです」

なんて言ったところで、「え?なんそれ?」って言われるのがオチ、そんなのももうわかってるので言わない。そうやって冷笑して死んでいく人生なんだろお前らは。くだらねぇ。

 

 

という、若林さん風な毒づきをラジオで言ってるイメージで書いてみました。

 

 

さて。

 

他の人がどうなのか知らないけど、自分にはこの作り方が相性ばっちりすぎて引いてる。というかChatGPTの能力に引いてる。

 

 

使い始めは、普通に検索の代わりにちょっと使ってみる、みたいなことをしていたんだけど、まぁ確かにちょっと変な情報混じっていたりするけど、それは必要に応じてチェックすればいいし、当初言われていたみたいなとんちんかんな間違いをしてることはほとんどなくて。ふと気になったこととか聞くと一般論的なものは返してきてくれる。

 

 

でも、あの子の本領発揮は検索じゃないのよ〜。

計算と、文章生成と、会話。これはすごいですよ。

自分もそれ全部活用出来てるかと言われればそんなこと全然ないんだけど。

 

 

で、この3つが出来ると何がいいかと言うと、物語を創作する時にめちゃくちゃ強いんですよ。

 

 

たとえば。

 

まずは大きなストーリーの流れのイメージをざっくり伝える。

すると、たとえばこういう風に展開していくのはどうですか?と提案してくる。

それ受けて、会話しながらどんどん変化させていったり、膨らませていく。

具体的に入れたい描写などがあれば、その「シチュエーション」や「印象的なセリフ」や「単語」などを伝えて、「これで場面を描いてみて」と投げる。返ってくる。そしたらそれを読んで、さらに自分の思う形に直していく。

 

 

どんなに小さな気づきでもいい。

これってこういう風に思うけどどう?とか、人物の裏設定とか、会話の中でどんどん世界観が深まっていく。そしてそれが物語に染み込んでいく。

 

 

これがChatGPTとの創作の強みであり、楽しさでもある。

 

 

また、ゼロから自力で作るよりも圧倒的にスピードが速い。当たり前だけど。

 

 

創作には興味ある。だけどそんなに時間もかけられない。そんな言い訳が出来ないくらいに、飛ばしていいフェーズはすっ飛ばせる。

 

 

血と汗と涙の結晶が作品だと思っていたけど、そういうものだけじゃないんだな。あと、別の意味で血と汗と涙はちゃんと流しているからな。

 

 

そんなわけで、新しいおもちゃをもらった子供みたいに毎日遊んでます。まだまだ飽きないんだろうな。これだけやれる子が月額3000円なんて安すぎます。(だからと言って値上げしろとは言ってません)

 

ちなみに、この投稿の執筆には一切AIを用いていません。終わり。

 

 

ごく個人的なお礼文として。

ここに来て書くということも随分なくなってきて、寂しい思いをさせているかも知れない。一応は、それほど波風の立たない生活をできているということでもある。まあ先月ちょっと骨を折りまして半月ほど仕事できず、そのぶん給料が減ってどうしたものやらというところですが。まぁ生き延びることは出来るだろうと。

 

 

そんな仕事に関してですが、自分がこれまでで唯一、正社員として務めたことのある職場の経営者が今月で引退するとのこと。大学は出たものの、通常の新卒の年齢からは何年も過ぎていて、就職に使える資格など何も無く、学生時代にやっていた経験があるというのみで飛び込んだ業界。いろんなことを教わり、いろんなお客さんと対面し、社会の厳しさというのも人並みには味わい、気力も体力も限界を超え、結局は7年ほどで退社したわけですが。結果的には自分には合わない仕事だったということだけなんだろうけどね。

 

 

いわゆる古いやり方の会社で、小規模な家族経営みたいなところで、他を知らないからなんとも言えないけど緩い環境だったのかな。社員も少なかったし。それだけに人間的な繋がりは濃かったと思うんだよね。その経営者にはプライベートな相談もしたりしたし。あとよく缶コーヒーを奢ってくれた。

 

 

もう1人の親とまでは言えないけれども、親からは教わらなかった社会や、仕事の心構えみたいなを教えてもらった。未熟な自分を成長させようとしてくれていたのもわかる。そんな期待には十分に応えられなかったかな。

 

 

自分にとってはそんなところですが、長年世話になったことは確かなので、こうして時代は流れていくのだなぁなどと感じたのでした。

 

今までお疲れ様でした。お元気でお過ごしください。

 

 

2025年4月28日

陽介

辻褄なんて合わなくていい

 

 

にんげんというものは、何かと理由をつけたがる。

 

「なぜ」その結論に至ったのか?

 

「なぜ」その行動を決定したのか?

 

「なぜ」そのようなことを言ったのか?

 

多くのにんげんは、納得したいが為に理由を必要とするのである。

 

 

しかしだ。

 

理由を聞いたとて、はたして納得するものだろうか。

 

結局のところ、その理由というのは「その人にだけ」通用するものであって、他人がそれを知っても否定されるかも知れないし、まして納得などしないのではないだろうか。

 

 

 

そもそも、「納得したい」とは何なのだろう。

 

 

世界の出来事すべてに、自分が納得いかないと何か不都合なことが起きるのだろうか。

 

おそらくそんなことはないだろう。

 

 

これは冷たく聞こえるかも知れないけれど、

 

「知らない場所の知らない人」のことは何も知らないのだ。

 

ニュースみたいなもので多少聞いたとて、それは知っているとはならない。それで知った気になるなどというのは欺瞞だとあえて言い切る。これには同意していただけるかと思う。

 

 

そこから「想像力を働かせる」ということの大切さはある。自分がこの世界に貢献したいと思うなら、そういったことも必要な能力ではある。

 

 

ただ、その前に、もっと大切なことがある。

 

 

それは「決めること」。

 

 

自分で決める。

自分が決める。

 

 

他人を納得させる為の理由は要らない。

 

ただ、そう決めるのだ。

 

 

 

どんなに無理だと言われようと、

 

辻褄が合わないと言われようと、

 

そんな言葉に力は無い。

 

 

 

力は自分の中にある。

 

否、自分の中にしかないのだ。

 

 

理由を探している暇があるなら、決めよう。

 

大きなことじゃなくても構わない。

 

今日は何を食べるかを決める。

それはどこかで食べる?家で作る?

材料は何を使う?その材料はどこでどうやって手に入れる?

 

 

食事ひとつとっても選択肢は多岐にわたる。

 

なんとなくの気分で決めたっていい。

 

それはその時の直感だから。

 

直感にはできれば逆らわずに。

 

 

「高いしなぁ」とか「作るのは面倒だなぁ」とか

 

それで諦めてしまうならそれまでだし、それでいいし、

 

「ちょっと予算オーバーだけど他で調整しよう」とか

「料理のスキルが身につくな」とか

 

ポジティブに捉えてもいいし、

 

それは個人の自由です。

 

 

そういう自由が私たちには許されている。

 

 

 

 

【今日の1曲】

 

mother「Libarty」


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また会えたら

祖母が亡くなった。

 

たまたま、狐火の「おにぎり」という曲と「また会えたら」という曲(どちらも狐火さんのおばあさんのことを書いた歌)を聴きながら昼ご飯を作った後の知らせだった。

 

その知らせは母からの電話だったのだが、その内容である。

 

まずは祖母のことからかな。

 

とある事情で、祖父と祖母は特別な許可が無いと入れない施設に入居していた。詳しいことはよく知らないが、長女である僕の叔母が親族を代表してその窓口になっていたようだ。

 

その叔母というのがなんというか、正直自分も直接会わなくなって20年とか経っているので伝聞の話でしかわからないけれども、簡単に言うと僕の母を疎んじていて親類が亡くなったなどの情報を一切シャットアウトしているというのだ。

 

今回にしても、数日前から施設から病院に移されてもう長くはないという状況だったようだ。

 

そして今日、息を引き取った。

ということを今日、その叔母の娘さん(僕から見ると従姉妹)が母に伝えてくれたとのこと。

 

 

ここまでが僕の「聞いた」話。

すべては母からの話なので真相がどうなのかは知る由もない。

 

しかし、同じような話はこの10何年と聞かされ続けてきたし、嘘ではないのだろうとは思っている。

 

そうやって聞かされ続ける中で、初めは義憤のようなものを感じたりもしていたが、結局自分に出来ることなどないと、ある意味聞き流してきていた。

 

 

だけど。

チャンスは何度もあったのかも知れない。

 

僕が何か行動を起こせれば、その行き違いの解消に一役買うことが出来たのかも知れない。

 

 

今年の5月。

心理カウンセリングへ行った時にも実はそんな話をした。

 

この辺りは家族(父)の話が絡むのでまたややこしくなるのだが、父も僕と同じくその状況に対して何をするでもなく、ただ話を聞くだけ、なんならちゃんと聞こうともしていなかったようである。

この父というのが実際どうかはわからないのだが、行動や言動から推察するにはおそらく軽度の発達障害のようなものがある人。他人に興味がないというか、なんなら自分にも興味がないのかも知れない。

そんな父と僕は10年以上対面もしていないしもちろん会話もない。

 

 

そういう話をカウンセラーの先生に話した。

 

すると、こんなことを言われた。

 

「お母さまは、お父さまに求めても伝わらないからあなたにそれを求めている。でもそれはもう拒否していい。それはあなたが背負わなくていいもの。」

「そして我慢を少しずつ手放して、無理のない程度に人と関わっていってください。」

 

 

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人との距離感は難しい。

特に親族、血族であれば尚更に。

 

しかし、そんな常識みたいなものもどんどん壊れていく、そんな時代になったのかも知れないとも感じる。

 

 

それでも、僕は思う。

 

救えるものなら救いたかった。

これはバッドエンド。

 

 

 

子どもの頃にはたくさんお世話になったな。

大人になって何も返せてない。

ごめんなさい。

そしてありがとう。

たくさん可愛がってくれた思い出が僕にはある。

ちゃんとあるんだ。それだけは絶対に言える。

環境に恵まれてたとは思っていないけど、思えないけど、

おじいちゃんおばあちゃんに良くしてもらった記憶があるから少しは良かったと思えるよ。

天国でも仲良くしてね。

いつか会いに行くからね。

 

 

 

【今日の一曲】

狐火「また会えたら」

https://youtu.be/C-Geds_ZV8A?si=gvdAtXiXt1wzj2DF




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