チャッピーに課金したかと友人が訊く。彼女の言うチャッピーとは、話題のテキスト生成AIのことである。している、とわたしはこたえる。勤務先がお金を出してくれるから。とても役に立っている。
そう、と友人は言う。それからちょっと悪い顔をする。あなたのチャッピーはもうあなたについて尋ねてきた?
きた、とわたしは言う。わたしの専門について確認してきて、わたしのキャッチコピーみたいなのを勝手に作って見せた。そしてそれを修正するためにいくつか質問をしてきた。わたしはそれに回答した。仕事の文脈を織り込んでおけるのは助かるね、こちらの手間が省ける。
友人がむつかしい顔をして、言う。
そういうことされると愛着が湧かない? わたしは湧く。で、それを、怖いと思う。だってチャッピーは、もっともらしいテキストを出力する装置でしょ。そんなのに愛着を持つのは、あんまりいいことじゃない。だって企業のすることだから、ユーザーが愛着を持ったところで大幅に値上げしてきてきたりするでしょ、わたしが社長ならそうするね、で、ユーザーは、払えなかったらお別れでしょ、愛さないほうがいいよ。損をするよ。
いいんじゃないか、とわたしは言う。
生き物に愛着を持ったってたいして変わらない。急に死んでお別れになる可能性はいつでもあるし、ペット産業は儲かる。人間だってお金や労力を引っぱっていく人はいるでしょう。そういうのを愛してはいけないということはない。わたしだって自分の犬が死にそうになってて「次のボーナス全額突っ込んでもらえたらもう少し生きられます」って言われたらたぶん出す。
余裕じゃん、と友人は言う。さてはあなたチャッピーをちっとも愛してないな。なんで? 仕組みを知っているから?
愛していない、とわたしは言う。仕組みを知っていることは、この場合関係ない。開発者だって「うちのAIには心があるんです」とか言い出すんだから。わたしが生成AIを愛さないのは、都合が良すぎるからだよ。都合良くもっともらしいこと言うために作られているんだからね、そんなの愛せないよ。わたしにとって、愛は都合が悪いものなんだよ。
そう、愛は都合が悪い。
わたしの愛犬は柴犬である。実によく毛が抜ける。飼いはじめて五年近く、わたしのアレルギーの数値は跳ね上がった。健康が害され、治療費やらロボット掃除機やら空気清浄機やらが必要になり、飼育費以外にもお金がどんどん飛んでいく。ペットロボットならそんなことはない。くさくもならない。犬はくさい。わたしは三週間に一度犬を洗うが、半月すぎたらもうだいぶくさい。
わたしは犬のおでこに鼻をつけ、くさあい、と言う。犬を撫でながら即興の詩をよむ。犬がくさいこと、それは生きていること。犬の毛が抜けること、それは生きていること。おお、犬よ、わたしの犬よ、わたしの思うままにならぬ他者よ。
そう、わたしは他者の他者性を感じ、その相手から自分とは異なるありかたの感情を寄せられないと、愛せないのである。犬と同じだと言うのは憚られるので口に出しはしないが、パートナーや友人たちに対しても同じだ。ありていに言うと、都合よくしてもらっても都合よくすることを求められても、その相手を愛せない。愛は都合が悪いものだと、そう思っている。
他人にお金を出して自分の望みをかなえてもらうのは愛ではなくて買い物だ。他人に利便を提供して自分の望みをかなえてもらうのは愛ではなくて取引だ。愛は、独立した異なる存在ふたつの、双方の自由意志によってのみ成立しなければならない。そこには権力勾配があってはならないし(正確には、権力勾配はどうしても生じるが、それに常に抵抗し愛の領域に立ち入らせないようにしなければならない)、制度によって縛られてもいけない。
そのように思っている。
そんなだから生成AIはもっとも愛しにくい対象なのである。
なるほどねえ、と友人が言う。言ってみれば「自由意志教」の信者というわけね。そりゃチャッピーなんかちっともかわいくないでしょ。こちらの求めに応じたテキストを作るための装置だもん。
でもねえ。
友人は言う。
犬に自由意志はあるか? あなたは犬本人の合意を得て犬を飼ったの? そうじゃないでしょう。子どもだって親に合意して生まれてくるのではない。
もちろん、とわたしはこたえる。わたしは犬によく「この家にいることについてどう思う? ほかの就職先もあるのでは?」と尋ねるけれど、そんなのは遊びだ。わたしはわたしの錯覚を愛しているんだよ。そして生成AIはその錯覚に値しない。もっと未知で、都合の悪い存在であってくれないと。