最近の若い方なら、忠臣蔵もご存じないかもです。
私たちの世代では、12月のどこかで、映画やドラマで、赤穂浪士の忠臣蔵がありましたからね。
一番最近の記憶ならと思い返しても、キムタクが堀部安兵衛をやった位の古いドラマしか思い浮かばなかったです。
最近アニメでも、幕末の新選組は、何度も取り上げられるのに、赤穂浪士のアニメはないですね。
少し前なら、AKB48風に言うなら、AKO47と言う事になります。
もちろん、こちらのアイドルグループも、48や46はあっても、47はないんですよね。
あえて、あの方は、47は使わなかったんですよね。
温故知新とは、よく言ったものです。
歴史は繰り返します。
それでも、幕末の新選組は人気ですよね。
我が家でも、『青のミブロ』は観たことがあります。
少し残忍なシーンが多いので、余り好んで9歳児ゆうゆうには、見せません。
でも、新選組の装束は、赤穂浪士の火事装束のパクリです。
デパートの京都大丸製の仕立た新選組のユニホームです。
新選組と言えば、明治になっても生き残った隊士も居られます。
アニメでも、三番隊組長を務めた斎藤一は、アニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』などにも、二番隊組長の永倉新八は、アニメ『ゴールデンカムイ』にも出て来ます。
何か特別な人気があるように感じます。
昭和の時代、12月言えば、どこかで赤穂浪士のドラマがありましたからね。
最近、観た赤穂浪士関係の映画は、プライムビデオで観た『決算!忠臣蔵』くらいですね。
それでも、2019年の映画です。
「忠臣蔵」を題材にして、限られた予算の中で仇討を果たそうとする赤穂浪士たちの苦労を描いた時代劇コメディでしたからね。
着眼点は面白いですが、何か違うますね。
確かに、こうした金銭の支援無くして、討ち入りの本懐はどけられなかったはずです。
金銭も人手も、支援者があったと言う事です。

歌川国芳 の有名な「忠臣蔵 誠忠義士聞書 討入本望之図」ですね。
吉良家討ち入りと言えば、本当はこんなイメージです。
武器だけでなく、梯子や掛矢など、大きな道具も必要になります。
写真の解説は、『歴史街道』「元禄時代と忠臣蔵の常識・非常識」(1999年 3月特別増刊号)の中で大石学氏の監修の元に解説されています。
武器も、大身槍や長刀や弓も所持して、討ち入りです。
吉良家に居たモノも、こんなものまで所持されたら、気持ちが折れると思います。
映画やドラマでは、寝間着のままで、浪士と戦いシーンが多いですよね。
それじゃ、本気で戦えないでしょう。
でも、多くのモノが吉良の屋敷に居たことは、死人や怪我人で明らかです。
上杉家からの付き人も居ましたからね。
でも、本当に打ち入って来るとは思って来なかった節がありますね。
確かに、吉良の殿様は、本来自分が悪いとは思っても居ないし、怨まれることもないと思っていますからね。
吉良の殿様は名君です。
家臣を思い、領民を思い、領土を良くしようと思っています。
源氏の正当な血筋の高い身分の出自です。
でも、討ち入りで家来を16名死者、23名負傷者と命を掛けた忠義者の家来を持っています。
これに対して、赤穂浪士は負傷者は出たモノの、死者は居ません。
それだけ、討ち入りの準備万端だったと言う事です。
赤穂浪士は、討ち入り後、火の始末などしてから、泉岳寺に向かって引き揚げます。
忠義の武士(もののふ)です。
でも、吉良家の家臣の中には、高禄の家老の中には、戦わずに自分で自傷して、戦いったものと詐欺するモノもあったように聞きます。
往々にして、高禄の家来程、亡君の仇討ちに参加しないモノなんですね。
赤穂浅野家も、家老上席の大石家は、内蔵助・主税親子以外にも、300石~1000石の家臣も居た後、討ち入りに参加したモノ半数近く(部屋住も含め)が、微禄の家臣と言う事になります。
忠義と家臣の家禄とは、比例しませんからね。
『歴史街道』「元禄時代と忠臣蔵の常識・非常識」(1999年 3月特別増刊号)に依りますと、刃傷事件当時、赤穂浅野家に知行取りが140名程度、扶持米取りが200数十名、合せて300数十名居たとされています。
士分の以下の足軽、小者、中間など、藩から支給を受けているモノが900名程いたようです。
幕府の軍役を負担する人数がいた事になりますね。
刃傷事件の後の赤穂城内での会議に出席できる資格は、知行取りの者を中心に徒歩以上とされる300名程度に限られており、後に討ち入りに参加する酒奉行の三村次郎左衛門は、7石2人扶持であったので、この会議に参加できなかったと解説にあります。
では、会議に参加した300人の中に、どれほどの討ち入り参加者が居たと言うのでしょう。
討入すらしない者が、忠義や武士の心得を幾ら威勢よく唱えて見ても、空論でしなかったと言う事です。
私の過去の記事でも、不忠義者として紹介しています。
ただ、討ち入りする者だけでは、討ち入りの成功は無かったので、いろいろと支援する者もあったと言う事です。
武士としての忠義が薄れて、時の時代は元禄時代で、商人の財力が華やかな時代でした。
ある意味、昭和のバブル時代です。
金銭的な無意味なもの、時代の逆行した人の暮らしがあったと言うとことです。
戦のない平和の時代に、命を掛けての奉公は少ないんですよね。
綱吉の混沌とした政治の中で、どうしたらいいのか、迷える武士が多かった時代でもあります。
柳沢吉保は、父の遺領を相続して530石から、後に大老格にして、15万石の大名になります。
甲府藩士530石から幕臣になり、大名になるまで、およそ13年の短い期間で大出世します。
それにそこから、15万石の大大名になるのに、16年と言う異例の大大出世です。
天下泰平の世にあって、これだけ大出世した御仁は居ませんね。
間部詮房、田沼意次の名前も頭を過りますが、15万石には、到底及びません。
間部詮房に至っては出自は武士ではないし、田沼意次も父・意行は、元々紀州藩の足軽の出自ですからね。
政治の力で、大名までになったと言えば、何か特殊な能力があったのでしょう。
犬公方と呼ばれる綱吉ですが、意外と名君の資質もあります。
もう少し評価されてもいい将軍ですね。
気難しい主人を賢く操る術があったのが、柳沢吉保でしょうね。
綱吉も、自分がお手軽に城主の内匠頭を、事件の当日に、即日切腹の沙汰したのに、吉良家討ち入りを聞いて、武士の鑑と評価する有様です。
吉良家討ち入りは、赤穂浪士と吉良家の戦でなく、ある意味、大石内蔵助と幕府との戦です。
武士の定め、頼朝以来の喧嘩両成敗を蔑ろにして、浅野家だけを処断した事に対する異議申し立てです。
幕府も大混乱しましたね。
最後にケリを付けたのは、荻生徂徠でしたからね。
武士道とは、死ぬこと見つけたりの葉隠れのアレですよ。
助命していたら、この問題も大きく結論が変わったはずです。
打ち入った47人は、助命されることを考えていなかったでしょうね。
これも、内蔵助の考えを周到していたことになると思います。
もちろん、助命されて、他家に仕官することなどあり得ませんから、これで終焉にしたはずです。
問題の解決をありきの策が、この赤穂事件を後世に残した結果に繋がったと思います。
今一度、この赤穂事件を考え直したいものです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。
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