ミヒャエル・エンデの「モモ」。名作と名高い児童文学です。
実は私、子供の頃にも読んだのですけど、いまいちピンとこなかったのですよ。もう一度大人になって読み返して、わかるわかると思うこともあり、やっぱりわからないこともあり、このモヤモヤした感情を言葉にしようとやってみました。
よろしければお付き合いくださいませ。
大人になって読み返した「モモ」は面白かった
「モモ」が名作と呼ばれる理由──ファンタジーとしての魅力
古い円形劇場に住む孤児、モモ。街中の人の時間が奪われつつある中で、彼女はひとり、亀のカシオペイアに導かれて「時間の国」へと旅立ちます。
その旅路、情景の美しいこと。逆さまに進む道、たくさんのユニークな時計、生まれて咲き、枯れていく時間の花。作品の中に描かれる夢の世界には、思わず読みふけってしまう楽しさがありました。
行き過ぎた合理主義への警鐘としての「モモ」
また、モモの感想としてよく挙げられるこの点。灰色の男たちに余暇を盗まれた人間たちは、おしゃべりの楽しさも忘れ、誰かに花を贈る幸福も忘れ、いつもイライラして暮らしています。
もともと私は「ボーっとして過ごす時間は無駄」だと考える人間ですので、この描写については考えるものがありました。よく「忙しいという漢字は心を亡くすと書く」といったことが言われますが、確かに、むやみに忙しい暮らしは人の心を荒廃させます。
その恐ろしさとみじめさを、児童文学として、それも楽しいファンタジーとして描き切ったところは、さすが名作と感心せざるを得ませんでした。
大人になって気付く「モモ」への違和感
効率化=悪と言い切ってよいのか
本作は児童文学ですから、子供に向けて「効率化なんて考えなくていい」と諭すのは意義のあることだと思います。しかし大人は?
例えば家事では、効率化はときに手抜きとそしられることがあります。やれ冷凍野菜を買うなとか、やれ電子レンジを使うなとか、うっせぇわ!
仕事の場でもありますよね。非効率な会議をスリム化しようとしたり、マクロを組んで作業時間の短縮をはかったり、そうしたことは一概に悪とはいえないと思うのですが、いかがでしょうか。
灰色の男たちが言う「無駄な時間」とは何なのか?
「モモ」は1970年代に書かれたお話です。当時の様子を、ウィキペディアの「企業戦士」の項目から考えてみましょう。
1960年代、アメリカにおいて人間性回復運動が起き、1960年代末には社会経済においても人間性回復が謳われるようになり、機械化の進展に依って余暇が増加してレジャー文明が到来することが予期されるようになる[2][3]。
また1970年には富士ゼロックスが『モーレツからビューティフルへ』という広告を出す[4]。また東急社長の五島昇も1970年に人間性回復の時代の到来を予期している[5]。
まさにモーレツからビューティフルへ、働き方が見直されつつある時代だったのですね。
そうした中で書かれた「モモ」では、子供たちの自由な遊びや芸術に触れること、友人とのくつろぎの時間が無駄と切り捨てられる様子を、批判的に描写しています。
しかし今ではどうでしょう。子供たちの遊びは自由がいい、自分たちで考えて遊ぶ創造性が大切といわれるようになりました。企業人の働き方にはQOLが欠けていると、余暇がないことはかえって批判の対象になります。
そんな現代で、灰色の男に「無駄な時間を削れ」と言われても、「無駄な時間とは何ですか? 友人との時間も芸術鑑賞も、なんならビールを飲みながらスマホでゲームをするのも、私にとっては大事な時間で無駄ではないのですが」と答えざるを得ない。
私たち現代人にとっては感動もプライスレス。家族や友人との語らいの時間にも、プライスがつく時代なのです。そうした社会状況の違いは、やはり考えずにはいられません。
「モモ」に描かれる金持ちは不幸という価値観
モモの友達に、飲食店を経営している男性がいました。灰色の男たちに無駄な時間を奪われた彼は、寸暇を惜しんで働いて、お店を人気のファストフード店へと「成長」させました。忙しすぎて、久しぶりに訪れたモモとの会話もできないほどの繁盛店へ。
屁理屈になってしまいますが、世知辛い人間に成り下がった私は、この描写に「従業員を雇えばいいじゃない」と考えてしまいました。
一生懸命働いてお金持ちになることは不幸でしょうか。もちろん、人間関係を壊すようなやり方はいけません。しかし彼のように成功した人は、地域に雇用を生み、従業員の暮らしを支え、社会を豊かにすることだってできるはずなのです。
時間泥棒とは何なのか・大人の視点から考える
先に述べてきた通り、大人にとって効率化とは決して悪いことだとは言い切れません。むしろ効率化が人を守ることだってあるでしょう。現代において、効率化は余暇を生み出す手段であるといって、さほど的外れではないはずです。
では生み出された余暇を盗むのは何なのか、誰なのか。
仕事に追われていたころの私の余暇を奪っているのは会社でした。しかし同時に、今考えると自分もそれに巻き込まれていたような気がします。休むことに罪悪感など覚えず、休日はダラダラしてよかった。そもそも休日をもっと取ってよかった。
それを考えると、自分で管理するという意識を手放さなければ、時間はただ一方的に盗まれるものでもないのかも、と思うのです。
物語の中では小さなモモが戦って、灰色の男たちから時間を取り戻してくれました。しかし大人の私たちは、自分で戦う決意を持たなくてはいけないのかもしれません。
まとめ
時間の国のマイスター・ホラは言いました。
人間は自分の時間をどうするかは、自分で決めなくてはならないんだよ。だから時間を盗まれないように守ることだって、自分でやらなくてはいけない。
日々の慌ただしい暮らし中で、うまく効率化をはかりながらも、大事なものを切り捨てていないか。考えたいと思いました。
