雨宮処凛さんの次の文章を読んでいろいろ思うことがありました。
「身内では通じる言葉」:志位氏の指摘と雨宮さんの指摘の共通点
雨宮さんの主張のポイントは
そう、このような言葉が「わかる」のは、特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けている人に限られるのだ。そんな特殊界隈にいる一人として、最近、そのことに自覚的でいなければと強く強く、思っている。自分が「身内では通じる言葉」に慣れてしまっていないか、常に問い続けるようにしている。
という点にあるように思えます。「身内で通じる言葉」になってしまっているという点です。
その後、日本共産党の志位和夫議長が、シンポジウムで次のように発言しているのを知り、興味を惹かれました。
志位氏は、「いかにして『戦争国家づくり』を許さない国民多数派をつくるか」と題して発言。総選挙の結果生まれている大軍拡と憲法9条改定を中心とする「戦争国家づくり」を止めるには、それに反対する国民多数派をつくる以外にないと強調。「そのためには、『大軍拡反対』『9条守れ』というスローガンを掲げるだけでは足りません。国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力を国民的規模で行う必要があります」とし、重要だと考える点を四つの角度で語りました。
雨宮さんが「ママ戦争止めてくるわ」というスローガンに意義を感じつつも、その限界を感じたこと、あるいはそこに抱く違和感と、志位氏が「大軍拡反対」「9条守れ」というスローガンの自動的な思考停止を批判していることは、共通しているように思いました。
「特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けている人に限られる」(雨宮さん)ような自動的な了解を求める「スローガンを掲げるだけ」(志位氏)の運動は、一定の意義があるけども、やはり限界がある、ということです。
すでに存在している「味方」を、署名やデモのように数として可視化して、社会に示すような運動の意義と限界です。

そうした運動に意味がない、というつもりはありません。「あなたの住む地域社会にはこういう声をあげている人がこれくらいの数でいるんですよ」ということを示すこと自体には現在でも意義があると思います。
しかし、以前(10年前くらいのスパン)のように、すでにいる「味方の数を示すことで相手の意図を挫く」という運動としての意義はかなり減退し、そうでない世代や人たちにアプローチすることがもっと重要になっていると思うのです。
これまで全くリーチしなかった人たちのところに足を運び、声を聞き、対話をするところから始める運動でなければならないんじゃないでしょうか。雨宮さんや志位氏の言っているのはそういうことなのだろうと思います。
憲法第9条についての意識は、世論調査では、「改正しない方がよい」が「改正した方がよい」を少し上回るという結果が続いてきました。
にもかかわらず、この二人が上記のような問題意識を持つように至ったというのは、だからと言って、今の「味方」を固めてその数を示すだけの運動ではまずいと思ったからでしょう。ひょっとしたら、この総選挙あたりを境にして、9条についての賛否は逆転している可能性も小さくないと思います。
戦争体験世代がいなくなり、9条が「国家として戦争を起こさないこと」の誓約=制約であるという自動的な観念がすっかり希薄になってしまったのではないかという危機感です。もちろん、ゼロになってしまったわけではないし、そのことを知っている戦後世代であっても、そのことにプラスして思考し、「とはいえ、今のアジアの安保環境の中で、それだけでいいのかと思いますね」くらいは思うでしょう。他方で、自衛隊を認め、その活躍に期待する人が9割近くに達しているわけです。
この点で、志位氏が
国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力を国民的規模で行う必要があります
としているのは大事な観点だと思いました。
しかし、志位氏がその後に掲げた「四つの角度」は間違っていないけど、あまり問題の的を射ていない、ポイントがズレているのではないかという“残念感”を抱きました。「国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力」になっているだろうか? と思ったのです。
志位氏があげた「四つの角度」は
- トランプ米政権言いなりの「戦争国家づくり」を進めていいのか(対米従属性批判)
- 抑止力の強化で平和をつくれるか(抑止力批判)
- 日中両国が積み上げた積極的合意を足掛かりになるのではないか(日中関係の解決方向)
- 憲法9条の誕生の経緯、戦後の役割、それを壊すことが何をもたらすかを明らかにしていく(9条論)
というものです。
別にそれらを語ることはマイナスではないとは思いますが、基本的に「戦争か平和か」「軍事か非軍事か」「外交か武力か」で対抗軸を作ってしまっている印象を受けます。
真剣に「国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力」をしようとするなら、「軍事」をどう扱うかについては対話する側が考えておかねばならないことです。
共産党は自衛隊を一気に廃止せず、国民の合意ができるまでは気長に存続してもらい、有事には「活用する」という方針です。
その点で、共産党の考えはちゃんと合理的な土台を持っています。
しかし、そこだけにとどまっていていいのかという問題はあります。
「国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力」をしようとするなら、では自衛隊をその間どういうふうな兵力レベルでどこに配置し、どういう戦略で存在してもらうのがいいのかを政策的に用意していなければいけないのではないでしょうか。
しかもそれは対米従属下で米軍の戦争に巻き込まれ、参戦してしまう自衛隊とは違った「真の専守防衛の自衛隊」として構想され、国民の前に示される必要があるでしょう。
田村智子委員長が対話で変容した瞬間
この点について、もう少し具体的に考えてみます。
共産党が田村智子委員長を先頭に「ストリート対話」を始めたのはいいことだと思います。なんと総選挙後の党活動の取り組みの「第一」的課題の一つとしてこのストリート対話が提唱されました
この第2回の動画の2分25秒あたりで、田村委員長は、「日本の国を攻撃してくるのを撃ち落とすっていうのはわかる」と防衛のためにミサイルで迎撃することは必要であるという主張をはっきりと行っています。
相当具体的な中身です。その部分はハズミでまずいことを言った部分として削除もされていません。
それを動画にして全党・全国民・全世界に発信し、しかも党の第一方針に掲げるようになっているのですから、単に言葉のあやではないのです。これはすごいことだと思います。

これは、国民と対話する中で、共産党委員長である田村さん自身が、専守防衛の現時点での具体的な政策を語り、ある意味で自分自身を「変容」させた瞬間です。これまでの共産党の政策の境界線を超えて自分を変えたのです。
『マルクス主義と言語哲学』などを著したバフチンは、ダイアローグ=対話主義を提唱しましたが、バフチンのいう対話は、自分自身が変容をこうむり、知らなかった自分が現れるようなそんな関係を「対話」としました。
単に説得の手段として対話するだけでなく、実際に左派として「軍事」を考え、その役割を実際に認め、政策提言していくような発展を見せない以上、対話は成り立ちません。*1
田村さんはこの2分25秒の瞬間、対話によって自身を変化・変容させたのだといえます。そうしなければ、この2人の男性との対話が成立しなかったからです。
左翼の再生は対話から始まります。
それは単に対話をしてニーズのリサーチをするというだけにとどまりません。対話によって自分自身がその対話の現場から変わるということが必要なのです。
相手を性急に変える必要はないと思います。安全保障でどういうことを考えているかをじっくりと聞き出し、対話をし、それによって自分自身も変容する、そういう運動が求められています。
「戦争国家づくりをやめさせよう」「憲法の改悪を許すな」という一方的な演説をしたり、「いつメンが大半の学習会」を“成功”させているだけでは、もう間尺に合わないということです。

線引きの整理
さらに具体的に考えてみます。
概念的にどこで線引きされるのか、という整理です(あくまで線引きの整理です)。
憲法9条の問題をめぐる現在の運動の性格は「軍事か非軍事か」「戦争か平和か」「戦争か対話か」ではありません。極端なことを言えば、どれだけ軍拡をしても、あるいはどれだけ自衛隊が国防のために戦おうと、そのことはこの運動においては全く問題ないのです。この運動においては。むしろ積極的にそうした仕事を考え、讃え、激励し、共感しあうべきなのです。さらに極端なことを言えば、核武装さえそこでは共感しあう余地があります(日本政府は昔から、9条のもとでも核兵器保有は理論上は可能であるとしてきました)。この問題(9条改正か擁護か)での線引きはそこではないからです。
また、中国が軍備を拡大し、核兵器を備え、台湾に武力行使をちらつかせていることは大いに憤激すべきなのです。そして、それをなんとかするべきなのです。ここでも大いに共感できるはずです。
問題は、国土防衛の戦争は「いい戦争」だけれど、アメリカと中国が起こす戦争で、台湾の近くで自衛隊が戦争に参加し、報復で日本が焦土になる、それは「悪い戦争」であり避けなければならないい、ということです。この課題設定は「戦争か平和か」ではなく、「いい戦争はしていいけど、悪い戦争はダメだ」ということになります。
問題の性格から言えば、9条の改憲は集団的自衛権をフルスペックでの解禁をするものであり、そのような惨劇に日本を巻き込む「悪い戦争」に道を開く危険があるということです。安保法制はその具体化です。だから改憲はすべきではないし、安保法制は廃止すべきなのです。個別自衛権の範囲で自衛隊が専守防衛に制限されている今の9条のもとでの安全保障がベストである、ということが概念的な整理の核心です。
しかし、その境界線は念頭におきつつも、運動においては、そして対話においては、その境界を時には融かして、相手とのやり取りの中で自分が変容をこうむることも含め留保しておくべきだと思います。自分の立場だけは死守して相手を説得してやろうという姿勢では対話になりません。
日本共産党の綱領はもともと安保条約に象徴される対米従属を日本にとって喫緊の危険と考え、それに対して自衛隊の解消=非軍事(非武装)はなんら緊急の課題ではなく、解消の国民合意ができるまでとこしえに待ち、その間は活用もするという悠長さを見せ、明らかにその扱いを区別してきました。
また、中国の台湾への武力侵攻方針や、その覇権主義を批判してきました。
もともとなかなかいい出発点を持っていたのです。
その出発点を活かして、対話をし、積極的に変容=発展していくべきなのです。
そういう運動は自分が変わっていくものであり、参加していても楽しいと思います。
冒頭の雨宮さんの文章に戻りますが、雨宮さんが感じてきた違和感は、戦後民主主義を経験してきた世代が自動的に結びつけてきた課題や言葉が効力を失いつつある中での違和感だと思います。
「9条を守ろう」ということだけで一致が勝ち取れた、戦争体験を軸にした平和主義が急速に変化(衰退)しつつあります。「9条の会」のような運動や、安保法制反対のデモのような運動はそのままでは通用しなくなりつつあります。それらをリニューアルしなければならないのです。
リアルにある危険を語ったり、認めたりするところから問題を始める、そういう新しい運動が必要ですから、軍事はなんらタブーではないのです。
(総選挙の結果生まれている大軍拡と憲法9条改定を中心とする「戦争国家づくり」を止めるには)『大軍拡反対』『9条守れ』というスローガンを掲げるだけでは足りません。国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力を国民的規模で行う必要があります
という志位氏の提起には大いに賛成できますが、「対話」というものをもっと踏み込んでとらえるべきではないでしょうか。
本文はここまでです。
あとは余談です。

余談1:課題設定=憲法改定反対? 憲法9条改定反対? 戦争国家づくりを許さない?
課題設定のことを一言。
「憲法改定阻止」なのか「憲法9条を守る」なのか「大軍拡反対」なのか「戦争国家づくりを許さない」なのか。
今ならべた4つでも、課題ごとに、国民の意識状況と一致点は全然違います。
例えば憲法改正の賛否を問われたら、改正賛成派の方が多くなります。ところが、9条だけに絞ってみると逆転します。
志位氏は
大軍拡と憲法9条改定を中心とする「戦争国家づくり」を止める
としています。
う〜ん…。なんとなくふわっとしてしまっていますね。あいまいで雑然としています。共産党の方針も総選挙後にいろいろ出ていますが、同じ状況です。
ここがあいまいだと「国民の疑問や不安をしっかり受け止め、それに丁寧にこたえる、本腰を入れた、粘り強い、対話の努力を国民的規模で行う」こともできないんじゃないでしょうか。
私は「憲法第9条を守る」という点で絞って考えてみたいと思います。
「絞っちゃダメなんだ。憲法9条の改定も、他の条項の改定も、スパイ防止法も、大軍拡も『戦争国家づくり』と結びついているんだ」と言いたくなるのはわかります。
しかし、それこそ「特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けている人に限られる」(雨宮さん)理解なんじゃないでしょうか。
一つ一つの運動の違いをよく見極めて、最後に合流できたらいいなと思える「結論」がそれだとは思いますが。
余談2:私の立場
誤解のないように、私の立場も述べておきます。
私は、高市政権の改憲の動きに危機感を抱いている一人ですし、米中戦争に日本が巻き込まれるかもしれないという対米従属の安保体制の危険性を感じている一人でもあります。
また、先の総選挙(2026年2月)では、「#ママ戦争止めてくるわ」には少しついていけなさを感じていましたが、それでも気持ちはわかる気がしましたし、「#戦争止めてくるわ」のハッシュタグをマンガ家や関連の人たちが次々使っていることに、共感を含め強い関心を持っていました。
*1:もちろんこのような想定自体がすでに自分の中にあらかじめ仕込んだ「変化」でしかなく、本当に対話をしていく中では、こうした想定さえ崩してしまう予想もしないような事態が生じるかもしれないのです。