1月11日付の「しんぶん赤旗」に小松泰信の書評が載っていたのをみて、ぜひ読んでみたいと思った。
小松の書評は、本書が考える「コメ政策の課題とあるべき方向性」について
- 農地の集積と農業生産基盤の整備
- 経営体や人材の育成
- データ基盤の整備
- イノベーション実装の加速
をあげた上で
疑問点もあるが説得力ある展開で本書の目的は達成されたと予想した。
と書いた。まあそんなもんなのかと思ったのだが、書評はすぐ次のようにつなげた。
ところが途中の「日本の農村で、いま何が起こっているか」以降、世界が一気に変わることになった。
おやおやと思って書評を読み進めると、
“日本のコメ農業は、一人ではできない”やコメ農業への参入は“コミュニティを背負うこととセット”というフレーズで、コメ農業と地域コミュニティの切っても切れない関係性を表し、「コメを作る農村の問題」はコメ供給の維持という問題以上に出口が難しいテーマと、正直に吐露する。正直なのは好感が持てるが、そこを入り口にして欲しかった。
と続く。つまりそここそもっと展開してほしかったと小松は思ったのであろう。
なぜなら三菱総研は、「『農業の多面的機能の貨幣評価の試算結果』を世に出し、多大な貢献を果たした」(小松)そうだから、農業がコミュニティとの関係で経済や社会にどう影響を与えるのか、をまさに真正面から論じて農業の社会的な意義を明らかにしたという歴史を持っており、その真価を今こそ発揮すべきだろ? と言いたいわけである。
そしてそういうアプローチをしないと「本書のタイトルは成就できない」、つまり謎解きの答えを出せない、と結んでいる。
じゃあ、この本は失敗だね、とはぼくは思わず、むしろどんな本なのか興味をそそられ購入に至ったのである。

第Ⅰ部:「令和のコメ騒動」を読み解く
本書は3部構成である。
第Ⅰ部は「『令和のコメ騒動』は、こうして発生した」というタイトルで、「令和のコメ騒動」がどういう問題だったのかを分かりやすく解説しようとする。
「分かりやすく」というのは、「真犯人はこいつだ」という単純な決めつけができないことを、数字をひもといて説明する、という意味である。
結論としては
今回のコメ価格高騰の原因は、単純に「需要に対して、供給が不足した」という理由以外には考えられない。(p.30)
とする。
そしてこれは本書を読んでのぼくの理解であるが、
- 2024(令和6)年8月の南海トラフ臨時情報(巨大地震注意)をきっけかに
- 買い溜める行為が増え
- それを「店頭にコメがない」という報道が増えることで
- 「なくなって買う」から「なくなる前に買う」という家庭在庫が積み増しされ
- 価格弾力性が低い=少しの供給減少が、急激な価格上昇をもたらすという特性を持つコメという商品のために
価格高騰が長引くことになった、というのが直接的な引き金だった。
さて、これは「需要が供給を上回った」ことによって引き起こされたパターンである。
他方で、2022・2023(令和4・5)年には「生産量減少」が起きていたとして、「政府が提示している需要量から28万トンも少ない量しかコメ生産が計画できていなかった」(p.61)ことを著者は示す。その具体的な計算は本書を見てほしい。
…1960年代から続くこれまでのコメの生産調整政策の歴史の中で、農業関係者はすべからく「コメの生産を政策的に抑えている」と考えてきた。しかし、令和4・5年産については、政府が示す「これぐらい作ったらいいのではないか」という数量を、農家は「作ろうとしなくなっていた」「作れなくなっていた」と考えるべきではないだろうか。
今回の需給ギャップ拡大が白日の下にさらされたきっかけは、酷暑などの気候変動問題だろう。しかしながら、その背景には、気候変動に対応しきれなくなったことも含めて、農家の基礎的な生産力・地力の低下があるのではないか。
高齢化などより、その傾向はじわじわと強まっていたが、令和4年(2022年)あでのコメ価格の低下と生産コストの上昇という環境の中、酷暑が2年続いたことで、農家が頑張れる臨界点を超えてしまった。それが令和5年産の状況であり、その後の令和6年(2024年)のコメ騒動につながっていった。(p.62)
小松の書評でもこの指摘を抜粋しており、本書としてコメ不足の背景を説明した箇所として考えられている。
ただ、2023年には大幅なコメの価格の上昇は起きていないように思えるし(少し上昇しているが)、翌年の計算にこの部分がどう持ち越されたのかは、ぼくの読み落としだろうか、本書を読んでもよくわからないので、「それが令和5年産の状況であり、その後の令和6年(2024年)のコメ騒動につながっていった」という説明が今ひとつしっくりこないのである。
あえてぼくなりに理解すればこうなる。本書を読めば2024(令和6)年8月以降のコメ騒動がもたらされた構造はそれなりに理解できる。ぼく流の言い方をすれば南海トラフ地震の臨時情報をきっかけにしたメディアの過熱報道で需要が過熱し、供給不足に陥った、ということだ。だけど、じゃあ一過性のものかと言えば、前年の供給不足で起きたことを見ると、コメ価格の急騰こそ起きなかったものの、もはや農家のコメを作る基礎体力は限界にきている、いつでもこの需給ギャップの拡大によるコメ騒動の再来は起こりうる…ということではないだろうか。
本書のこの部分の記述は、農家の限界という話の部分はともかく、「流通業者が隠匿して大儲けした」などの世俗の議論に丁寧に付き合っている点がとてもわかりやすかった。
また、基本的な事実であるが、ごはん1膳とパン1枚は同じカロリーであり、値段はコメ(28円→62円)よりパンの方(42円→48円)が安くなってしまったということも初めて知った。つれあいに言ったら「えっ…同じカロリー…? ああ、4枚切りっていう前提なのね」と言っていたが。
また、農家が作った680万トンはだいたい半分がJA(農協系)、半分が農協系以外にまわり、JAに流れたコメがJA系の卸に行く以外は、JAを経て非農協系の卸・中間流通に行くのだということも知った。

第Ⅱ部:日本の戦後農業史の解像度を上げる
第Ⅱ部はコメ生産・コメ政策の歴史と現状である。
ここは手軽にそれを知れるものだ。
例えば水田面積がどれくらいあって、ピークからどれくらい減少しているか。
人口が増えてきたのにそんなに減ったら大変だろうと思うが、それなのに大丈夫なのは、1人あたりの消費量が減っているからである。
次に農業政策・コメ政策の歴史を追っている。
ぼくにとって意外だったのは、農業とは農業基本法(1961年)以後は農業人口も減り衰退の一途なのだろうと思っていたのがそうではないことだった。
農業人口の減少はその通りだが、
しかし1985年頃まで、じつは名目ベースの農業総生産額は、一貫して増加し続けいた(p.81-82)
この時期、農業の現場で起こっていたのは、産業としての農業の衰退ではない(p.83-84)
のである。
コメ農家の生産性向上は、1ha程度であれば、土日だけでも十分、営農できる状況をつくった。結果的に、コメ農家を中心に日本の農業の担い手が、建業農家にほぼ固定化されていくことにつながった。(p.85)
本書によれば化学肥料・農薬、農業機械、品種改良の普及などによる農業の生産性の向上、「緑の革命」が日本の農村にもあった。
ぼくは父の生い立ちを聞き取りしているが、父が結婚したばかりの60年代初頭は例えば肥料をどう工面するかに相当悩んでいる。海からイシコ(ナマコの仲間)をとってきてそれを干して畑にまいたり、集落の草を争って刈って肥料にしたりしているのだ。
父は事実上苗木の流通業者になったのだが、苗木(園芸作物)の生産者として「農家」でもあった。彼のビジネスは1970年代から上向きになり、80年代から90年代に隆盛を迎えた。ヤクザなどが取り仕切っていた縁日の苗木の時代が終わり、流通と小売が整えられていった。父の証言と
1970年代から90年代にかけての小売流通構造の変化、全国展開するスーパーの登場などを通じて、野菜などの園芸商品が全国流通になり、各地で園芸作物の産地形成が進んでいくことになった。(p.85)
という本書の記述は見事に付合した。
7章の「GATTウルグアイ・ラウンド以降の日本の農業」はぼく自身が知りたいと思っていたことだった。
一部の左翼の農業史観だとどうしても「日本の農業は輸入で衰退の一途」というだけになってしまうのだが、先ほど見たように、農業生産額もそうだし、生産総量も増加している。他方で、「1990〜2005年は土地生産性・労働生産性とも、はっきりと減少」(p.93)しつつ2005年から現在まで再び増加に転じているのである。
特にWTOで日本の農業は一体どうなるんだ、輸入品に負けて壊滅するのではと言われていたけど、あれはどうなったんだろうという思いがずっとあったのである。
本書のこの部分では、GATTウルグアイ・ラウンドやWTOがどのような国際交渉であったのかを端的に、わかりやすく教えてくれる。WTOが頓挫してしまい、そこに向けて準備していた日本政府の論戦の態勢、食料自給率論、農業の多面的機能論が「ある意味、無駄な準備・努力に終わった」(p.96)というのが本書の把握である。
国内政策的に見ると、流通自由化は進んだ一方で、生産側の政策はそれ以前のグローバル化前の政策を引きずったままであった。(p.95)
これに賛同しない人も多かろうが、問題をとらえる一つの方法だと思った。
著者は基本的に大規模化の推進論者である。多様な担い手という方向性ではない。したがって、戸別所得補償はこうした構造改革を妨げるものとして批判している(「かならずしも否定されるべきではない」ということも述べているが)。
8章以降に、コメ政策が説明される。
数字や仕組みなど詳しくは本書を読んでほしいが、生産量がどうやって決まるのかというその意思決定をざっくりと示している。
ついぼくらは政府が上から目標をかぶせて、それで生産量が決まると思いがちである。しかし、
農家からすれば、国や都道府県の生産目標など、どうでもいい話かもしれない。結局は、「何をどう作れば、いちばん儲かるか」という話である。(p.122)
という。政府としては補助金のメニューをいろいろ用意し、水田で作る作物を転換したり休ませたりということも含め、農家がそこは選んで、その結果として生産量が決まるのだという。
が、そう言いつつ、本書は提言をしている終わりの部分で「日本のコメ農業における地域コミュニティの重要性」(p.210)について触れている。
自分だけ有機農業をやりたい、自分の会社だけの判断でこうしたい、と言っても簡単に通る話ではない、ということが書かれている。
だとすればやっぱり、コミュニティとしての「圧力」で生産総量や分担も決まり、一人一人の自主性はなんとなくそれに引っ張られているのではないか、と思ってしまう。町内会の「圧力」を通じて、行政の意思を貫徹させてしまうようなものだ。
小松の書評がこの問題に注目して、そこをもっと抉ってほしかったという趣旨の注文をつけているのは、慧眼である。

第Ⅲ部:食糧安保としてどれだけの水田を維持すればいいか
第Ⅲ部では解決方向が提言される。
これも詳しくは本書を読んでほしいが、著者は食料自給率論をあまり意味がない政策目標として批判する。
だからと言って海外から買いつけろという立場でもない。「コメだけは『100%自給』すべき理由」を著者は説く。その上で、食糧安保として2050年時点で350万ha(うち水田100万ha)の耕地面積の維持を計算して主張する。
そこにあわせて政策提言を行なっている。
そうした提言そのものにぼくは賛同しているわけではない。
しかし、そこに至るまでに著者が論じてきた材料は、農業を考える一つの切り口として、ぼくのような素人には役に立つことばかりだった。
農業問題の入門書として、またコメの生産や流通の構造を簡単に知るガイドとして、さらに手軽なデータブックとして本書は活用できる。