私こと・紙屋高雪と斎藤美奈子さんとのトーク&サイン会は本日(2025年11月14日金曜日)午後6時からです。拙著『正典(カノン)で殴る読書術』と斎藤さんの『絶望はしてません』のことだけでなく、幅広く政治・社会・文学について語り合います。
オンラインや録画がありませんので、ぼくとしては「ここだけ」の話もぜひしたいと思っています。多くの方のご参加をお待ちしています。
日本共産党は「プロレタリアートの独裁」という概念をどう見ているのか
ぼくの『正典(カノン)で殴る読書術 「日本共産党独習指定文献」再読のすすめ』で、紙幅の都合で取り上げられなかった1冊について書いておきます。
皆さんは「プロレタリア独裁」とか「プロレタリアート独裁」というマルクス主義の用語を聞いたことがあるのではないでしょうか。
「マルクスは『プロレタリアート独裁』を掲げた。だから、旧ソ連も中国も他の社会主義国も独裁国家なんだよ」というような具合に。
これは実際に起きている現象と、それが書いてあるマルクスやレーニンの文献をみたら、疑問の余地がないほどに「それはその通りだろう」と思うに違いありません。
じゃあ、やっぱりマルクスを理論的な下敷きにしている日本共産党も、将来は独裁をめざしているし、今の党の体質もそこから出てきているんだな、と納得してしまうのではないでしょうか。
“マルクスが使った『プロレタリアート独裁』は一党独裁の意味ではない”
これに対して、「マルクスが使った『プロレタリアート独裁』という考えは、一党独裁という意味ではない」「だから一党独裁というのはマルクス主義の本来の立場ではない」と主張したのが、日本共産党であり、その理論的根拠としたのが本書です。
本書『科学的社会主義と執権問題』は、最初に書名と同じ、不破によるこの問題での文献研究の長い論文が載っています。論文の終わりに1976年4月27日〜5月8日付の赤旗に載せましたよ、という記載があります。字の小さかった当時の赤旗日刊紙にこんなに長く載っていたのですから、相当です。実際文庫で116ページもあります。
いま赤旗誌面での志位和夫「青本」「赤本」キャンペーンに対して「毎日毎日個人の研究をこんなに長く載せるな」「個人著作を全党に読ませるなど前代未聞だ」との非難が起きています。2025年の日本でそういうやり方でいいのか、それで「しんぶん赤旗」の魅力になるのか、という問題はありますが、実は1970年代にもこうした個人の署名を冠した研究を毎日毎日載せるというスタイルはあって、独習指定文献として、指定もされています。それはまあ事実の問題として言っておきます。
この理論的態度を見習うべきでは
さて、それにしてもなかなか長い論文です。
しかし、この論文は、当の「プロレタリアート独裁」についての研究をのぞいても、共産党として「このマルクスの概念はどうなんだ」という問題が起きた時は、どういう態度で臨むかという一般論が最初に書いてあり、共産党として、今これくらいの心構えでやはりことに当たる必要があるんじゃないかと思っています。
『正典で殴る読書術』にも書きましたが、フェミニズムや環境の理論と「共闘」する機会が増えてきたのですが、それに対して理論面で原則的な態度をとりながら「共闘」するという心得がないと共産党本体が「溶融」していってしまいます。
斎藤幸平の「脱成長」を志位が批判したのは良かったと思いますが、それを対談でちょこちょこというんじゃなくて、きちんとさかのぼって体系的に解明すべきだというのが、こういう論文を読むとよくわかります。まあ、もっといえば、「搾取とか労働者とか言っているけど、共産党職員は労働者じゃないの?」とか「共産主義は自由だと言っているけど、共産党内部で異論を次々排除しているんじゃないの?」みたいなことにはきちんと答えるべきだと思います。それがないと足元の現実を覆い隠したまま議論していることになりますよね。
さて、本書ですが、本書のエッセンスは、実は本書に収録されている、赤旗日曜版での「『プロレタリアート執権』問題について」という不破インタビューに、非常に短く、しかし完全に表現されています。
こんな問題を日曜版に載せるんだ! と今の感覚なら思うかもしれません。
でも読んでみると本当に要領よくまとまっています。書いてある疑問も、「そうすると、三権分立はみとめないということになるのでしょうか」という、当然の疑問が載っていて、今志位が「Q&A」でやっているような、「まったくQ&Aになっていない」「どこからその疑問出てきたの」みたいな疑問・質問はほとんどありません。
まさにそれが読者が読みたいことですし、理論的にも潔いと思います。
いまの党幹部、なかんずく志位は見習うべきでしょうね。
“プロレタリアートのディクタトゥーラは労働者階級の権力獲得のことだ”
簡単にいえば「プロレタリアート独裁」の「独裁(ディクタトゥーラ)」は権力獲得のことであって、ブルジョアジーの政権のもとで改良するんじゃなくて、労働者が独自に権力を獲得しないと革命はできないよ、という概念を表したものだ、というのが共産党の主張です。だから「プロレタリアート独裁」は「労働者階級の権力(獲得)」と同義なんだ、というわけです。それゆえ、「ディクタトゥーラ」というラテン語に、「独裁」ではなく「権力獲得」=「執権」という言葉を当てることにしたんだ、と。
だから「プロレタリアートの独裁」ではなく「プロレタリアートの執権」だと。
おいおい、「執権」とか鎌倉時代かよwと思ったあなた、その通りですね。でもまあ、辞書には「政治の実権を握ること。また、その人」という語義があり、そこまで無理矢理ではないのです。
いやいや「ディクタトゥーラ」って、英語では「ディクテイト」の語源だろ? チャップリンの「独裁者」って「ディクテイター」じゃん、おかしいよ…というのはごもっともです。
この語はもともとローマの独裁官(ディクタトゥル)が非常時に全権を掌握したことをイメージしている、という解説が不破の研究には載っています。不破はこの「ディクタトゥル」を「執政官」と訳しています。だから、「執権」はちょうどいい訳語なんだ、と。*1
じゃあなんでそんな概念を使ったんだ、という話になりますよね。「労働者階級の権力獲得」でいいじゃん、と誰しも思うわけですよね。わざわざ独裁的なイメージのある政治概念を使ったってことは、やっぱりそういうつもりがあったんだろ? と。
不破によれば、いやいや、1848年のドイツ革命では、おかざりの議会だったけど、革命勢力が議会の多数を取ったんだよ、だけどそこで規約解釈とかのお喋りをああでもないこうでもないってやっているうちに、旧権力側の武力部隊がやってきて、簡単に放り出されてしまったんだ、だから、革命をやるって言っても、議会だけ握ればいいんじゃなくて、実力・武力を含めた国家権力の全体を握らないといけないんだ、パリコミューンはそれをちゃんとやったんだ、というその「議会だけでなく国家権力の全体を掌握する」をイメージするためにこの概念を使った、というわけです。
そして、レーニンやスターリンが使った「プロレタリアートのディクタトゥーラ」概念はおかしかった、ということも言っています。
だから、「日本共産党としてプロレタリアートの独裁概念を今でも支持するんですか」と正面から聞かれれば「一党独裁という理解やソ連流の理解は間違いですが、マルクスの本来の意味では支持しています」ということになります。
ただ、解説がないとわかりづらいので、今は使っていない、ということです。「人民の民主主義的独裁」という言葉が日本共産党の過去の文献に出てきますが、これだけみると本当にわけがわかりませんよね(笑)
“新ライン新聞はマルクスの執権だった”
当時の日本共産党は本当にあらゆる文献から「独裁」の用語を追放しました。
大月書店の『レーニン全集』の「独裁」用語も変えさせようとしたようですが、さすがに研究者の著作物なので、注釈を入れて赤旗に広告を出したりしていました。
学生時代、不破が学生新聞での連載で、「新ライン新聞の編集局はマルクスの独裁だった」というエンゲルスの回顧文章まで「新ライン新聞の編集局はマルクスの執権だった」に変えてしまっているのを、先輩が教えてくれて、大笑いしたこともあります。
不自然にもほどがあります。

まあ、ここの訳語を持ち出されて「ほら、独裁って訳しとるやん!」と追及されても困るので、不破としては泣く泣くこうしたのかなと今になれば思います。