日本共産党が『資本論』の…というか志位和夫の『Q&Aいま『資本論』がおもしろい』(赤本)の一大学習運動を始めている。
どんな本であっても読むこと自体でその人の幅は広がる
うん、『資本論』の学習運動をすること、そのために志位の解説本を読もうということ、それ自体はぼくはいいことなんじゃないかと思う。
新たな本を読むことそれ自体は、それがいい本であってもくだらない本であっても、果てまたは「悪い」本であっても、その人にとってマイナスになることはないんじゃないだろうか。いろんな経験が人間的成長を促すのと同じである。*1
前にも述べたが、志位の赤本は、『資本論』解説本としてはそれなりにわかりやすい。悪くないんじゃないかなあ。
それが果たして今の党建設上の危機を打開するカギになるかどうかは別として。
共産党のスローガンは昔から「知は力」である。このスローガンが持つ積極的な意味と否定的な意味について、拙著『正典(カノン)で殴る読書術』のあとがきで書かせてもらった。「知は力」なのか、それとも「知は善」なのか。
『資本論』の中心点を国民に広げれば世の中が変わるのか?
そして、志位がこの間繰り返し「労働者階級の成長・発展を主軸にして、社会変革をとらえる」と強調していることは気になることではある。
もちろん、これ自体、先輩である不破哲三が強調してきたことに似ている。
資本主義から社会主義への発展が、マルクス『経済学批判序言』のごとく経済の自動過程——自然史的過程であるかのような理解を戒め、資本主義の中での矛盾が階級闘争という主体的な契機として現れることを不破は早くから述べていた。
しかし労働者階級の闘争を「主軸」として、あたかも経済的な矛盾や発展と切り離され、それが自立し、しかも肥大化した中心のように捉えられていくと、それはいくらなんでもリアルな歴史とは縁遠いものになっていってしまうんじゃないか。

さらに『資本論」を読む運動を、党内ではなく日本の中に「ムーブメント」として広げることを任務としようとしてる。
そしてそれは「労働者階級の自覚と誇りをつちかう学習運動」なのだという。
ここから見えてくるのは、国民の中に広く『資本論』を持ち込むことで「労働者階級の自覚と誇りがつちかわれる」、それが「労働者階級の成長・発展」をリードするかのような思考の枠組みである。
もちろん、はっきりはそうつなげていない。
しかし、志位は「『資本論』の中心点が、国民全体、とくに労働者や若いみなさんの中に広がっていくことになれば、世の中は大きく変わります」と述べ、それを受けて共産党の議員や候補者が赤本・青本を街頭でかざして演説しているのを見ればやはりそういう理解をしているのだとしか言いようがない。
志位は、またこうも言っている。
労働者の暮らしが苦しいのは、一人ひとりの労働者に責任があるわけでも、ましてや排外主義の勢力がいうように外国人に責任があるわけでもない。資本主義的搾取にその根源がある。その秘密を広く労働者階級全体の認識にしていくことは、この日本社会を変革する上で決定的な意義をもつ仕事になることを訴えたいと思います。
志位は同じ記事で、街頭でのシール投票で4人に3人、つまり「多くの人々が『搾取の感覚』をもっている」という。すでに労働者の多数が搾取を実感している、というのだ。すでに搾取されてる実感があるならもういいではないか。それなのに、わざわざその搾取の科学的仕組みの認識を労働者階級に与えることが、社会変革にとって「決定的意義」を持つのだという。
逆に言えば、(『資本論』や赤本を読ませて)その認識を広げなければ社会変革は起きない、と言っているように聞こえる。
これはあまりに主観的な社会発展観ではないだろうか?
「我が教義が広まれば世の中が変わる」という宗教にも似ている。
社会はそのように発展しないし、マルクスもそんなふうに社会は見ていない。
不破でさえそうした主観的な見方に警告をしていた。
実はそのことを、テーマの一つとして繰り返し議論しているのが拙著『正典(カノン)で殴る読書術』である。
共産党抜きに社会変革は起きるか?
「共産党抜きに社会変革は起きるか?」「共産党がなくても社会主義は実現するか?」——日本共産党員はこの問いにどう答えることになるだろうか。
労働者階級が増大し、闘争が発展し、社会主義が実現する——というマルクスの見通しに対して、「なかなかそうならない」と見えた現実が生まれたのが19世紀末から20世紀の初頭であった。
イギリスでは労働者階級が成長しても、資本主義社会が続いていってしまうではないか。などと。
例えばベルンシュタインは、これに対して、漸進的な改良による社会主義の実現を訴えた。
他方、例えばレーニンは、『なにをなすべきか?』で労働者階級ではなくその外からの外部注入による組織づくりと社会変革の必要性を説いた。そして『帝国主義論』で植民地からあがる超過利潤によって金融資本が日和見主義指導部を培養するために、社会変革は単純じゃねーんだ、とも主張した。
共産党はベルンシュタインの見方を「改良主義」として否定し、レーニンの見方を概ね選んできた。
しかし、それを21世紀にもう一度見直してみる必要に迫られている。もちろん、単純にレーニンを否定したり、ベルンシュタインを称揚したりするわけではない。だが、やはりそこにまで戻って考えるべきなのである。
そういう時代に、「労働者階級の成長・発展を主軸にして、社会変革をとらえる」という志位の見方は果たして正しいだろうか。
いや、このブログ記事では、正しいとも間違っているともぼくは言うまい。
本当に社会を変えていく上で、共産党というのはどれくらい必要な存在なのか、あるいは社会はどのように変わって社会主義に移行するのか(しないのか)、そういう根源的なことを、ぜひ志位の赤本(『Q&Aいま『資本論』がおもしろい』)・青本(『Q&A共産主義と自由』)と拙著を読み比べて、共産党支部で議論してみてほしい。
そして果たして「知は力」なのか、それとも「知は善」なのか、ということも。
指導部やまわりの支部メンバーの目を気にしながら「なにかうまいこと言わなきゃ」と焦りながら言葉を探し、「確信になりました」と言うような学習会だけは、やりたくないものである。もちろん、そんな学習会はあまりないと思うし、そんな学習会をやろうと言っても支部での学習会は開始されまい。そんな学習会であれば今月(2025年10月)が終わる頃になっても半分の支部すら開始していないような運動になってしまう恐れがあるが、まさかそんなことはないと思う。
*1:この世には確かに心情的にはこんな本は本当にくだらない…読むだけ無駄…と言いたくなる本がないわけではないが、それもまあ含めてですよ。