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斎藤環・水谷緑『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』

 白石正明『ケアと編集』を読んでいるときにこの本が紹介されていて、それで知った。

 斎藤環・水谷緑『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』は精神医療の方法の一つだが、本書にはそういう断り書きが全くない。

 だから、医療ということでなくても、何か日常で使えるような気がしてくる。しかも本書は専門家がいなくてもあなたたちシロートでも始められますよと勧める本だからますますそういう気になる。

 そもそも『ケアと編集』も、医療ということを離れて、「対話を自己目的にする」という行為に注目するために本書を紹介しているのだから。

  『ケアと編集』の中で、対話の自己目的化としてのオープンダイアローグに注目していることを説明する部分で次のように書いていることに注目した。

 

 

 一言でいえば、話す内容ではなく、話している行為そのものに価値があるということだ。話すという行為を続けているうちに、当初問題とされていたこと自体が変容してきたり、それを問うことの意味がなくなったり、どうでもよくなったりする。要するに、問題は「解決しないけれど解消してしまった」という状態がしばしばやってくるのだ。(白石93/209)

 みんなであーでもないこーでもないと言っているうちに、それが問題として解消してしまう…ということがありそうな気はする。白石が「べてるの家」という精神障害者の施設の取り組みを紹介して

べてるでは「問題だらけ」がまん中にあってミーティングをする

そして「ミーティングなんかで解決しない」

そこがいいんだわ

という早坂潔という人の言葉が載っている。「解消」という解決をしてしまう場合もあるけど、問題が残り続けたままになっていることの方が常態としてある。そういうものとしてミーティング=対話があるのだ。

 こうした視点で斎藤の本書を読んだとき、対話というものでは何も「解決」しない、するときもあるがそれは偶然の産物であって、対話それ自体に意味があるということを本書で言われるのである。

 

3 わかったつもりにならない

 妄想や幻聴を尊重しましょうということです。徹底して「他者の他者性」を尊重する。これこそが治療的態度のコアなのです。診断があまり推奨されない理由は、診断することで、他者の他者性が消えてしまい、わかったつもりになってしまう。統合失調症という診断をつけてしまうと、「あっ、これは統合失調症のこの類型にあてはまりますね」というふうに頭がはたらいて、わかったつもりになってしまう。そこには、もはや他者はいません。

 他者というのは、あなたの認識をはるかに超えた、計り知れない深みを持った存在のことです。それを理解することが対話では大事なんです。対話実践を続けていると、どんな患者でも、こちらの予想を超えた言葉やふるまいを見せてくれます。そういう他者性を尊重する姿勢もまた、治療のプロセスを支えてくれる大切な要素です。(p.96-97)

 裁判みたいなことをやっておいてナンだけど、政治の場でこういうことができたらすばらしいとは思う。それは、例えばお前にとっては被告のような立場の人の「他者性」を尊重するってことなんだけどね、といわれると、そいつはすげえなあと思ってしまう。

 

 結果的に私たちがしてきたことは、「そんなことあるわけがない」と反論するわけでもなく、「そうですよねぇ」と同調するわけでもなく、ただ、「私はそういう経験をしたことがないからよくわかりません」という基本姿勢で、「どういう経験か知りたいので、もっと教えてくれませんか」と尋ね続けたことだと思います。

 そのように聞いていくと本人は、みんながわかるような言葉を自分で絞り出して説明するわけですが、おそらく他人にわかってもらうように説明するという過程のなかに、ちょっとこれは自分でもおかしいなとか、自発的に気づくきっかけがあったのかもしれません。人から言われて気づかされるのではなくて、自分から矛盾や不整合に気づいて修正していくと、結果的に正常化が起こってくるということかもしれないなとは思いました。(p.61-62)

 

 これはマンガで解説された一つのケースについての斎藤の説明である。

 ぼくから見ると「妄想」としか思えないことをしゃべっているのであるが、みんなで話をとにかくよく聞いて説明してもらうという中で語りや本人に変化が現れてくる…というような説明として書かれている。そういうケースもあれば、そうならないケースもあるようなので、必ずそうなるわけではないようだが。

 

 変えようとしていないからこそ変化が起こる——この逆説こそが、オープンダイアローグの第1の柱です。オープンダイアローグでは、治療や解決を目指しません。対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です。

 では、治療や改善はどうなるの? 病院に来てるんだから治療するのが当然じゃない? と思われるかもしれませんが、治療というのは、非常に繊細な過程です。特に精神科の場合は、まわりが治そうと頑張りすぎると治らなくなってしまうということはしばしば起こりますし、治療者のほうも「何がなんでもオレが治す」みたいに意地になると、逆にこじれてしまいやすい。治療も人間関係ですから、一方通行の意思が発動すると有害な反作用が起きることはめずらしくないわけです。

 ですから、ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、一種の副産物、“オマケ”として、勝手に変化(≒改善、治癒)が起こってまう。(p.65)

 これは医療に関する話なのだが、ぼくは政治活動を思い出してしまった。

 「党勢拡大につなげよう」「票に結びつけよう」——そういう目的や意思が強すぎるというか透けて見えると、やはり「有害な反作用」があるんじゃないかという想像をしてしまうのである。「医療と政治は別ですよ」と言われたらそれまでなのだが、なんだかそういうことを連想してしまうのである。

 

 共産党支部で「3分間スピーチ」というのをやっているところがある。うまくやっているところでは、政治のことだけでなく、自分の生活や関心事などを自由に話す。少し合いの手を入れるけども、基本は話し手の話を妨げないで聞いている。終わったら、それを受け止める感じで感想を言ったり、質問をしたりする。

 ちょっとオープンダイアローグに似ているなと思う。

 生活が政治につながていることもあるし、まったくの個人的なことで閉じてしまうこともある。しかしそこに抑圧はないので、自由に話せるのである。

 オープンダイアローグと決定的に違うのは、「リフレクティング」がないことだろう。「リフレクティング」は、聞いた話を受けて、先ほどの話し手がいる場所で、話し手だった人の目を見ないで、別の方を向いて話し手だった人の話についてみんなで語り合うのである。そこではジャッジしたり否定したりはしない。

 そうすると、話し手はそれを受けてまた何かを話したくなってくるのである。

 

 例えば、「3分間スピーチ」だけをやる政治集団というものがあり得るだろうか、と考えてみる。

 もしそこになんらかの楽しみや悩みの解消のようなものが生まれ、対話それ自体が自己目的になる場が発生したならどうだろうか。

 

 本書において、水谷緑のマンガは「添え物」ではなく、本質的なものである。

 斎藤の似顔絵が簡潔でポイントを捉えているという点もさることながら、オープンダイアローグの楽しさややさしさが伝わってくる。また本人の抱えている困難さも。まさに水谷のマンガによって「やってみよう」という気持ちに誘われるのである。

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 もう本当にとりとめのない感想になった。医療の方法を医療の方法としてではなく、何か自分が関わっている政治のようなことに生かせないだろうかという視点で読んだのでこんなことになってしまったのだが、専門的な何かの方法が、他のことの刺激になるのは往々にしてあることだから勘弁してほしい。




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