日本共産党の志位和夫議長による『資本論』ゼミ(「いま『資本論』がおもしろい」)が行われた。3時間半もあるが、聴講させてもらった。
ぼくは若い人たちと長年地道に学んでいた『資本論』ゼミを組織側の弾圧により解散させられた側である。学ぶという人間として一番大事な営為の一つを、粉々にした人たちが、どんな顔で「学ぶことの意義」を説いたりするのだろうというという思いはある。
だけど、そのことはいったんおいておこうか。
『資本論』をどう学ぶかは、志位のようなやり方はまあ一つの方法だと思う。実際にそれで読んでみようかという人が増えれば結構なことではないか。
『資本論』を学ぶ際の真の困難——『資本論』の原文にあたった時に挫折する
ただ、『資本論』というのは、実際に原文(ドイツ語文ではなく翻訳された日本語の『資本論』原文という意味)にあたったときに、本当の困難が始まる。「面白そうだな」と思ってもらえる概略講義をするまではいいが、いざサークルを作って『資本論』そのものを読み始めたり、自分で一人で読み始めたりすると、第1巻はおろか第1章を読み終えることさえできない。がんばっても価値形態論が出てくる第3章という密林の中で迷子になって挫折することはほとんどだろう。*1
だから、志位はこの講演でも難しいところの原文を読んでもらう作業をチャレンジして、読み解いていくデモンストレーションをやったらよかったのではないかと思っている。*2また、共産党支部や民青の班会で『資本論』を学び始めたら、電話やアプリでわからないところをいつでも教えてくれるサポートを、共産党中央の学習・教育局がやったらどうかと思うのだがいかがであろうか(AIでかなりできそうな領域に来ているが)。

しかしだからと言って今回のような志位の講演——「面白そうだな」と思ってもらうきっかけ作りが無駄だとか、おかしいとかは思わない。こういう機会が増えること自体はとてもいいことだと感じる。
内容については、また精査して述べることもあるかもしれないが、ざっと聞いた限りでは、特に何をいうべきこともない。
(すでに『共産主義と自由』にかかわる問題点は述べた。)
今の若い人は共産主義(社会主義)をどう学ぶか——高校の政経の教科書を読む
今回のゼミについてこれを主催した民主青年同盟(共産党を相談相手にする青年組織)はこのゼミに向けて「共産主義と自由」キャンペーンをやっていると5月10日付「しんぶん赤旗」に書いてあった。

「共産主義に問題を感じている青年が多く、共産主義によくない印象をもっている…」というのが問題意識の出発点のようである。
もしこれが民青に集まってくるような若い人たちの問題意識の中心なんだとしたら、果たして、今回のような『資本論』そのものを読むという入り口の設け方が良かったのだろうかという疑問はある。
若い人たちが抱いている「共産主義の問題」「共産主義のよくない印象」をもっと探求して、そこに噛み合わせたらどうだろうか。
ぼくはきょうたまたま高校の「政治・経済」の教科書を読んだ。
「社会主義の政治制度」ということで中国が実例として挙げられていて、まあこういうことを高校で「しっかり」教えられているんだったら、そらあ社会主義には期待したくなくなるわなあ、と改めて感じる。

ぼくは日本共産党が若い人に社会主義や共産主義を伝えたいなら、まずきちんと日本共産党が中国や旧ソ連のような政治体制を採用することはめざしておらず、そこで起きている人権抑圧には厳しく反対していること、中国や旧ソ連の覇権主義とはたたかってきたことなどを伝えるべきではないかと感じる。
「自由な市場経済=資本主義」「政府が決める計画経済=社会主義」という記述
社会主義経済については次のように書かれている。

経済体制は、二つに大別される。一つは、生産者も消費者も自由意志で行動し、結果として社会全体の資源配分の調整を市場に委ねる市場経済である。これは、資本主義経済とも呼ばれる。
もう一つは、政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済であり、社会主義経済がそれに相当する。
現在では、世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている。
ここには市場経済=資本主義、計画経済=社会主義という構図が提示されている。
テスト問題も見せてもらったが、「社会全体の資源配分の調整を市場に委ねる市場経済である。これは( )経済とも呼ばれる」「政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済であり、( )がそれに相当する」「世界の多くの国で( )の経済体制がとられている」という穴埋め問題になっていて、高校生たちはこのような問題を教え込まれ、解かされるのである。「ちがーう!」と思いながらそれを読む。
他にも社会主義についてさまざまな記述があるのだが、多くの若い人の意識はここから出発している。
まず、単純に、完全な市場経済に全てを委ねている資本主義経済というものは存在しないし、後で少し述べるように資本主義を「G-G'というもうけの生産と最大化を目的とし、それを社会原理において最優先している経済」だと定義しても、そのような純粋な資本主義経済というものは存在しない。
同時に、「政府が生産者に何をどれだけ作るかを司令することで社会全体の資源配分の調整をおこなう計画経済」という純粋に一元的な計画経済をやっている「社会主義」経済も存在しない。*3
資本主義経済も「社会主義」経済も、最初の出発点のピュアな姿を修正して、資本主義経済は計画や国家の介入・規制をかなり受け入れるようになり、「社会主義」経済も国家が全て決定・計画・調整するようなやり方を見直し、市場経済や利潤追求原理を導入するようになっている。
つまり、世界の経済は、両者のミックス——「混合経済」や「社会主義市場経済」へ向かっているというのがトレンドだということである。
このことは「政治・経済」の教科書でも一定読み取れる。


しかし、こうした歴史の現実を総括したとき、教科書は「世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている」(p.85)「社会主義経済の…崩壊」(p.88)としてまとめられてしまう。ピュアな市場経済・資本主義経済というものも修正をせまられ、存在しなくなったにもかかわらず、教科書はそのことには口をつぐんでいる。
他方で、中国を「社会主義経済」としながら、それは資本主義に屈服して変容したかのようにだけ描かれている。
教科書自身が最初に「資本主義経済=市場経済」「社会主義経済=計画経済」と定義したはずである。その定義に忠実に歴史と現実を再定義するなら、いずれも修正を迫られて、「市場・利潤追求」と「計画・規制」のミックスに収斂したことを認めるべきではないだろうか。それを「世界の多くの国で資本主義の経済体制がとられている」などと概括することは、自ら立てたロジックを裏切る、きわめてイデオロギッシュな誘導であるように思う。
これが歴史の大きなトレンドであることを、高校の教科書を使って後づけることさえできるのである。また、そういうことを以前もぼくは書いた。
高校生が学んでいる教科書は実際に何を教えているのかから出発して、そこから伝えることを考える、というのがまずあってもいいんじゃないだろうか。

さらなる問題——市場経済と資本主義の混同
ちなみに、さらにここから先は理論的な問題、理論的な整理が必要な問題が含まれている。そのことを最後に述べておく。
というのは、「市場経済=資本主義」「計画経済=社会主義」という図式について、きちんと整理(批判)しておく必要があると思うのだ。
簡単に言えば、利潤追求を第一の原理とする資本主義と、市場を通じて商品を交換する市場経済は概念としては別のものだということだ。
このような混同は、広くある。
少なくない人がここを混同して問題の解決につまづく。その整理はマルクス主義にとって一つの課題のように思われる。
確かに資本主義は市場経済の中で成長してきたが、市場経済は資本主義以前から存在した。G-G'という「もうけ」の生産と最大化を目的とし、それを社会原理において最優先にするのが資本主義なのだから、市場を通じて商品が交換される経済であることとは区別される。
志位和夫は、今回のゼミで、最後に参考図書として不破哲三の『「資本論」全三部を読む』をあげた。
この不破の本の中(第1分冊)に、「市場経済と社会主義の問題」という節を設けて『資本論』の第一部第一篇と絡めながらこの問題を詳述している。そして「市場経済の研究を中心にした第一部第一篇」と評価しているのである。
そして、不破自身が市場経済の不可欠とも言える効用を並べた上で、マルクスやエンゲルス、そしてレーニンらが、市場経済をあまりに否定的に見すぎている問題についても触れている。
マルクス、エンゲルスは、経済理論のなかでは、市場経済の効用の側面は指摘しましたが、恐慌を生み出すなど、市場経済の否定面を正面からとらえ、社会の経済体制が資本主義が社会主義に変わったら、市場経済はなくなるものだと、わりあいに簡単に考えていたようです。だいたい、社会主義経済の特徴は、資本主義時代の自然発生的な分業を、自覚的、計画的な分業に変えるところにありますから、当然、市場経済はなくなってゆく、という想定でした。もちろん、それは一挙にできるものではなく、過渡的な時期はいろいろ考えはしましたが、基本は、社会主義と市場経済は両立しない、というところにありました。(不破前掲書、旧版、第1分冊p.248)
そして、市場経済の効用を代替するものがなかなか見つからないことを指摘した上で、市場経済は社会主義において長く残るだろう、というかかなり大きな役割を果たし続けるだろうということをにじませながら、次のように述べるのだ。
そこには、まだ理論的に解決されていない大きな研究問題があると思います。そして、それは、世界的に実際の経験が蓄積されるなかで、時間をかけて解決されてゆく問題だと思います。(同前p.271)
ここで論じられている不破の市場経済と社会主義のイメージも実はかなり狭い、独特なものなのだが、その問題はここでは論じない。
ぼくはまず、商品交換を行う市場経済と、利潤第一主義としての資本主義経済を区別するという整理をすることが、マルクス主義の発展にとっては大事だろうと思う。「資本は市場経済の中から生まれてきたのだから、市場経済を廃止してしまえば資本はなくなる」というオールド・マルキストの考えを克服することだ。
資本主義の中で生まれたさまざまな規制・介入・計画の仕組み(パーツ)が繁茂し、それが市場経済や資本主義を覆い尽くす中で、マルクスが指摘したような資本主義の問題点は克服されていく——大ざっぱにはそのような道筋をたどるはずである。だから、社会は漸進的にしか改革されていかないだろう。
高校生とか若い人が実際にどういうものに触れているのか、という現実から出発すること。そして、それに対応する際に、新しい理論問題や課題とされている問題の整理に挑戦すること。こういうことを心がけるべきだと思う。