太田啓子弁護士が2019年に『宇崎ちゃんは遊びたい!』の「献血ポスター」に「環境型セクハラしてるようなもの」と批判したツイートについて、ぼくはその当時その批判を検証し、太田弁護士を(ある程度の範囲においてですが)批判し、それを本にまとめたことがあります。
太田弁護士は2025年4月に『100年先の憲法へ 『虎に翼』が教えてくれたこと』(太郎二郎社エディタス)という本を出版され、同社の広報担当の方からですが、ぼくにご恵投いただきました。ありがとうございます。
自分が批判されたとき、「そんな相手には近づきたくもない!」と思う人が多く、SNSなどでおよそ言論の自由とは思えないような悪罵やプライバシー晒しなど激しい攻撃を加えてくる風潮が蔓延する中で、著作で批判したことのある人にわざわざ送って、「ご高評を」と求める姿勢は、相手の立場をリスペクトする、民主主義的な対応だと深く感じ入りました。ぼくのような未熟者は、そういう姿勢が貫けるかどうかわかりません。ぜひ見習いたいと思います。
送られたその日に一気に読んでしまいました。
日本初の女性弁護士・裁判官となった三淵嘉子をモデルにしたNHKの朝ドラ「虎に翼」を題材に、憲法をやさしく解説しつつ、ドラマのに登場したキャラクターやドラマの展開を人権やジェンダーとして評していきます。つまり憲法論でありドラマ批評でもあるのです。
本書で心に残った点をいくつか書き留めておきます。
憲法は少数者の権利のためにある
p.41に尊属殺事件をめぐる憲法判断をした判決の話が出てきます。ドラマでは、主人公の同窓生で友人である山田よね(土居志央梨が演じる)が
もしも今も尚、尊属殺の重罰規定が憲法第14条に違反しないものとするならば…無力な憲法を、無力な司法を、無力なこの社会を、嘆かざるを得ない!
と弁論します。これは現実の事件で大貫正一弁護士が述べた弁論にもとづいていると本書で知りました。
「もしこのことが裁かれないなら、憲法とはなんと無力なものだろう」というのは、ぼくが高校生のときに、自分の学校の校則について感じたことでした。「表現の自由」をうたっているくせに、それは学校の校門の前で立ち止まってしまうんだ、という悔しい気持ちを持ちましたが、それは他方で、憲法がかかげる人権というのは、自分とは別の、どこか遠い話ではなくて、初めて「自分ごと」だと思えたから覚えた「悔しさ」でした。
現在でも、ぼくは裁判をやって、労働者の権利を主張しているわけですが、もしそれが「お前の労働者の権利など認めない」「結社がどんな無法をやろうが結社の自由の方がもっと大事だ」と司法が判断してしまうなら、やはり「無力な憲法を、無力な司法を、無力なこの社会を、嘆かざるを得ない!」と、よねのように叫びたくなるところです。
この点で、太田弁護士が「憲法は少数者の権利のためにある」と題して解説しているところは「我が意を得たり」という気持ちでした。
あらためて、憲法って何のためにあるのでしょうか。憲法があって本当によかった、助けられたと一番思うような場面って、どういうときだと思いますか?
私は、自分が少数派(マイノリティ)であるときだと思うんですね。(p.48)
「結社の自由」だから、特殊な結社がやる解雇は特殊であり、自由なんだ、という理屈が通ってしまえばその結社の中で結社(の多数派)がふるう理不尽を救済できなくなります。司法がそれを追認するなら憲法とはなんと無力であることかと嘆きたくなりますが、そうでない判決が出たとき、まさに「憲法は少数者の権利のためにある」という太田弁護士の述べたことをぼくは実感できるでしょう。
とりわけ、尊属殺をした人は、いわば「人殺し」をしてしまった人です。そんな人の声や権利を取り上げるのかよ、というのがマジョリティの感覚になります。
尊属殺人罪に該当する犯罪を犯してしまう人というのは、数としては圧倒的な少数派ですし、どんな事情があろうと犯罪を犯したことについて社会から非難を受けるという意味でも、なかなか声をあげづらい立場に立たされます。そういう人たちの人権を守ろうという声は、多数決の原理のもとではなかなか通りにくく、法律にも反映されづらい。それでも、数の上でどれほど少数であっても、侵害してはならない権利…が憲法…に定められているから、法律でもそれを侵害してはならないのです。少数者の人権保障の最後の拠りどころが憲法だというのは、こういう場面で発揮されます。(p.48-49)
あげた声は決して消えない、いつか誰かの力になる
p.77には「あげた声は決して消えない」として、このドラマで繰り返し語られるテーゼについて書かれています。
このドラマは、おかしいと思うことに声をあげることの大事さを繰り返し描いていました。(p.77-78)
そして、主人公寅子の次のセリフを紹介します。
「おかしい」と声をあげた人の声は決して消えない。その声が、いつか誰かの力になる日が、きっとくる……私の声だって、決して消えないんだわ(p.78)
ぼく自身、「おかしい」と裁判に訴える形で「声をあげた」わけです。仮に負けても「その声が、いつか誰かの力になる日が、きっとくる」んじゃないかと思ったのですが、予想に反して、すでにたくさんの人から「励まされた」という言葉をもらいました。
ぼくも他の人が先に裁判を始めたことは大きな力になって自分の裁判を始めたわけですが、それがさらに波紋のように他にもどんどん広がっています。寅子の時代はそうした声がなかなか可視化されず、ゆっくりとしか進行しなかったのではないかと思いますが、今ではSNSなどの力であっという間に広がっていきます。
ここで寅子や太田弁護士が述べたことがいっそう強く実感される時代にいるのです。
ドラマに出てくる男性キャラの批評
本書では第2部に「男性たちの群像」として、ドラマに出てくる男性キャラクターをジェンダーを軸に批評しています。
こういうドラマの論じ方を「つまらない」と思う向きもあるようですが、ぼくはそうは思いません。社会の中で新しく生成しつつある価値について、マンガでもドラマでもそれを軸にみんなで語り合いたい、というのは、コンテンツの楽しみ方の重要な一形態です。昨今、そういう楽しみ方を「政治的」「ポリコレ」といって不自然に避けてしまうのは、逆に読みを貧しくしてしまうと思います。
太田弁護士に限らず評価が高いのは、寅子の最初の夫である優三です。
優三という人の大事な特徴を、ひと言で言うなら「ケア力が高い男性」だと言えると思います。…こういうケア力は本来、性別によらず大事な能力だと思うのです。(p.112)
率直に言うと、女性が若くて社会的経験が乏しい頃に、優三のような人こそがパートナーとして素晴らしいということがわかっていることは、あまり多くないのではと思うのですね(私がそうでした)。(p.116)
太田弁護士によれば、女性の側は自分のパートナーが優三っぽくていいパートナーであることをあまり言わない、それは惚気になるからだという遠慮とともに「尻に敷いている」的な偏見に晒されるからだということも書いています。
ぼくもこの太田弁護士のパートナー観に同意します。ぼく自身は単にぼーっとして何もしないだけの人間ですからケア力は相当低いのですが、めざすところはそこです。
ただ、「気が強い」ということと、ケア力のあるなしは別のことだと思います。
ケア力は、相手との対話や相手の意思の尊重やリスペクトを含むので、当然物腰は柔らかくなったり、対応が断固としない点が出てくるのは自然といえますが、そうしたケア的な環境の破壊に対して断固として闘ったり、一本筋を通す姿勢などはケア力を貫く上では求められるところであり、優三が寅子の生き方について送ったメッセージの意志的なトーンはむしろ「気の強さ」を(いい意味で)感じさせるものでした。
『にこたま』の岩城を思い出す
なお太田弁護士がそういう優三のような
地味でおとなしく、緊張するとすぐにお腹にきてトイレに駆けこんでしまうような男性キャラにときめく女性キャラ、といったものが描かれる作品は、あまり見たことがない(p.116-117)
と述べていますが、そのことについてひと言。
確かにそういうキャラって少ないとは思いますが、ぼくは即座に渡辺ペコ『にこたま』の岩城を思い出しました。
『にこたま』は、ある男性(岩城)が恋人がいるのに同僚とセックスしてしまい、子どもができてしまう話です。同僚の女性は徹底してクールで、最初から結婚する意思は微塵もなく、一人で子どもを育てていこうとするのですが、それとは別に男性を好ましく思っていることを告白するシーンがあります。
同僚の女性は、岩城のヘタレぶりを本人にこう言います。
岩城くんは 何かあるたび
そうやってマジかよみたいなカオしてへどもどするけど
人の決断や状況に
流されたり巻き込まれたりして
次のコマに自分が進むのを望んでいるのよ
そして、「けっこう好きなのよ」と告白するのです。

岩城はちょっと嬉しそうに見えますよね。(下図)
ぼくもなんかこれを読んだとき嬉しかったのです。
他にも森薫『乙嫁語り』に出てくるヘンリーとタラスの関係もそうじゃないかなと思いますが、キリがないのでこれくらいにしておきます。
穂高先生論はさまざまに議論できる
ものわかりのよい、ジェンダー平等の感覚もありそうな、尊敬すべき恩師として登場する法学者の穂高先生ですが、寅子の人生の随所で「間違えた」メッセージをしばしば送ってしまいます。
本書ではp.135から論じられています。
そこにはさまざまな論点があるので詳しくは本書を読んでほしいのですが、一つだけ。
「君の言う通り、私はあの場で許されたかったんだ。楽になりたかった。でも恥をかかされて、すぐにそれを認められなかった」「私は結局、古い人間だ。理想を口にしながら現実では既存の考えから抜け出せなかった……でも君は違う。君は既存の考えから飛び出して人々を救うことができる人間だ。心から誇りに思う」
これはなかなか言えない言葉ですよね。自分のとった情けない行動や卑小さ、ずるさは誰しも見つめたくないものです。性別を問わずですが、やはり男性はよけいに自分の弱い側面を認めたらがず、目を背けがちではないでしょうか。そう言う「男らしさ」の負の制約を乗り越えての謝罪だったと思います。(p.149-150)
「私は結局、古い人間だ。理想を口にしながら現実では既存の考えから抜け出せなかった」というのは進歩的組織自体が抱えている課題です。
そこをちゃんと見つめて謝ることができるかどうか。そこには、ジェンダーも絡んで「弱い側面を認めたらがず、目を背けがち」となっているという指摘は重要だと思いました。
このドラマは全体を通じて、「謝れない男性」を念頭に、こういう謝り方もあるよね、こういうシチュエーションでは、こういう風にだったら謝れるんじゃない? という謝り方のロールモデルをさまざまに提示しているところがあると思います。(p.150)
他にもさまざま感じたことがありますが、このくらいにしておきます。
繰り返しになりますが、本書はやさしい言葉遣いで一気に読めます。憲法を自分に引きつけながら読むという点で、例えば高校生である娘とかの世代が読んだら面白く感じるんじゃないかとも思いました。つまり憲法の学習として使えるでしょう。
また、「虎に翼」のドラマ批評をやりながら学習会をやる上で、本書は議論の叩き台になると感じました。
いろんなシーンで使える一冊です。