職を失ってしまったので、お金をケチるようになった。
電車代など高くてたまらないので、どうかすると片道20kmのところで自転車で移動したりなんかする。その帰りにお腹が空いてついケンタッキーに入って1000円超食べたので、つれあいに大笑いされた。
日常の買い物はぼくがやっている。
スーパーや量販店をハシゴすることになるのだが、一律にいつもここが安いというところはない。候補店が7〜8もある。
娘が激しく牛乳を飲むので牛乳の1リットルパックは欠かせない。この候補の中では170円台のスーパーが一番遠くにあるのだが、そこまで毎回行くのは億劫なので近くの店で一番安い199円のところで買っている。
そんな十数円単位の刻みで比較をしているのに、必要なすべての商品を一気に比較することはできないから、牛乳で20円トクしたと思っても、コーヒーで100円をソンした、ということが頻繁にあって、よくよく考えてみると全然トクをしていないことがわかる。これでポイントなどに振り回されるようなったら末期であろう。
サブスクなどの大きな固定費や、旅行のような巨額の裁量コストをどうにかしないで、そんなところをちまちまやっていてもしょうがないというあきらめがなかなかできないのである。
「消費者」という立場は、日常にいると何の主体性も持てないような受け身の存在であると感じることが多い。
消費者が主体的な存在として経済にかかわることができるイメージを、多くの人は、どの回路から持つことができるだろうか。

本書『消費者と日本経済の歴史』は、何とも地味なタイトルである。
しかし、中身は知らない分野だっただけに、知識として初めて接するものも多かったし、単に知識だけでなく、歴史的な認識を得ることができた本であった。まさに戦後の日本経済における消費者というものの存在・運動の歴史が概括できる。
ぼくが本書で一番強く印象に残ったのは、「消費者」(それは時代によって「生活者」だったり「顧客」だったりするが)をめぐる問題が、なんと社会主義やマルクス主義、左派運動の対抗・ライバル意識のもとに組み立てられているということだった。
「おいおい、そりゃマルキストであるお前の自意識過剰さだろう」と思うかもしれない。いや、そんなことはない。
ちょっと見てみる。
戦後と高度成長期:社会主義への露骨な対抗
まず戦後直後から高度成長期。大企業の経営者の追放の後、中堅幹部が経済同友会を結成。そこでは露骨に社会主義への対抗を意識する。
経済同友会の修正資本主義論は、所有と経営の分離を柱とする企業民主化を打ち出したが、それは資本家(=所有者)中心の資本主義と、労働者中心の社会主義の双方を批判しながら、経営者こそが企業運営を司るものとして最もふさわしいと説くものでった。(p.23)
社会主義に対抗する資本主義の正当性と、企業民主化を担う専門経営者という担い手の正統性が、ともに消費者の利益を根拠とするかたちで説かれているのであった。(p.24)
社会主義は労働者階級の利害にたち、生産という視点からものを考える。資本主義は資本家の利害にたち、利潤という視点からものを考える。両者を総合しているのが消費であり、経営者なのだという理屈だ。「生産vs消費」というマルクス主義の構図が裏返されている。

ポスト高度成長:大企業との対決、近代主義批判
次に、1970年代半ばから80年代半ば。
高度成長が終わり、そのひずみが明らかになる時代で、インフレなどの物価高騰、公害などが大きな問題となる。
経済同友会の文書(「七〇年代の社会緊張の問題点とその対策試案」)には
大企業に対する反発、いわばビッグなるが故に悪とする感情的反発がからみあっている(本書p.75)
という文言が登場する。
公害問題では大企業の利益優先に直に矛先が向き、消費者運動として女性である「主婦」がしゃもじのデコを持って経団連にデモをかけることなどが盛んに行われた。
しかし同時に、革新政党や労組も「近代主義」として運動の中で批判されるようになる。筆者・満薗は政治学者高畠通敏の議論を紹介しつつ
たとえば住民運動が公害反対運動に乗り出そうとすれば「〈近代主義〉的イデオロギーとしての社会主義観に強い異和感を示す」ことにもつながり、「「海を元通りにしろ」「人間を返せ」という漁師や公害病患者の叫び」が、「補償金——財貨で片がつくという思想を拒否」することになるし、「「ふる里を守る」「もうゆく場所がない」という村民や居住者の感覚」が「移転先を示したり許容限度を計算したりする革新地方政府のゴミ工場や貨物線の〈合理的〉な計画にも抵抗する」ことになる。(p.79)
と述べている。
他方で、生活クラブがこの時期に登場し、本書では創始者・岩根邦雄の
という発言を紹介している。
また、「大地を守る会」もこのころに登場し、その創設は学生運動経験者によってなされる。資本の論理を乗り越えようとする具体的な社会構想(ユートピア)として生産者と消費者の結合をはかろうとした。
この時期のきわめつけは堤清二だろう。本書にもそういう紹介があるが堤は東大時代に共産党に加わりながら、共産党が分裂・混乱に陥った「50年問題」の中で共産党から除名されている。
彼は父親の堤康次郎の事業の一部を受け継いでセゾングループを率いることになる。その中で流通産業を「資本の論理」と「人間の論理」の境界領域になる「マージナル産業」と規定した。
交換価値からから使用価値への転化という捉え方は、マルクスの『資本論』をベースとするが、堤の議論は、その転化の先を人間の論理と読み換えたところに特徴があった。(p.129)
堤自身、無印良品には「「反」資本の論理」という発想があったと回想している。(p.142)
しかし堤は革命家でなく実業家であった。
そのような立場に立つ限り、マージナル産業としては、資本の論理を根源的に否定する方向ではなく、人間の論理を資本の論理に埋め込むことを通じて、資本の論理の再編成を図る方向しかない。商品世界を生活者の視点から再構成しようとする商品科学研究所の取り組みが、ノーブランドのブランド化という矛盾をはらむ無印良品の展開に結びついたことは、そうした資本の論理の再編成という矛盾に満ちた営みのプロセスにほかなるまい。(p.145)
80年代後半〜2000年代:企業=悪の意識との対抗
そして80年代後半から2000年代。
ここは顧客・「お客様」としての消費者が登場する。
主婦連のような政府・財界に対する運動は、「お上頼み」「自己責任に反する」という風潮ができ、消費者団体が消費者の考えていることとズレている問題に直面するようになった。
ここは社会主義や左派への対抗としての「お客様」論ではない。
左派の退潮、運動の魅力は多くの人を魅了するという力を次第に失っている姿が消費者運動を通じて見えてくる。
企業は消費者の苦情対応という考えから、顧客のニーズをとらえ、満足を促すものとして消費者対応を考えるようになりACAP(消費者関連専門家会議)という企業横断的な組織が立ち上がる。
ACAP(の初代理事長)はこれまでの消費者対応の歴史を振り返って次のような総括を書いているのだという。
一九七〇年代の「コンシューマリズムは企業を悪とし」、「対立する勢力として“対決”を迫」った(p.203)
そうではなく、消費者・行政・企業の三者の協議による問題解決という一種のコーポラティズムのような考えを述べている。
また1986年から理事長を務めた土居敬和は
私は企業が意図的に社会に悪い行為をとる、などということはとても考えられず、対話集会に出席し、自分の所属する企業のことを悪意をもって言われることに我慢できませんでした。(p.204)
企業即悪としか考えていないかのごとき運動家にぶつかることがあり、この時には、今までの対立の深さを思い知らされる。(p.205)
あるいはACAPの会員である電機メーカー出身理事の次の発言。
弱者の消費者はつねに企業に騙され被害を受け、企業は少しの反省の色を見せず、相変わらず自然を破壊し公害を撒き散らし、欠陥商品を市場に送りだし、市民に大きな迷惑をかけている「社会の敵」だといった教条的な固定観念の持主がいて、企業の消費者担当者としては、いつも見解にギャップを感じる(p.206)
ここには、依然として社会運動や運動団体の中にある左派的な、しかも固定的な教条との対抗が強く感じられる。すでに大きな力は発揮できていなかったかもしれないが、やはり社会の中にあった左派的な意識との対抗で消費者への企業の対応が形作られていたのではないかと本書を読みながら感じたものである。
消費者運動から社会主義は学ぶべきことがある
ここまでを概括して思うのだが、消費者運動や消費者対応が、社会主義や左派、マルクス主義などとの対抗を意識して形成されてきたということを考えた時、ぼくはマルキストの一人として、そこにマルクス主義の発展としてそこに学ぶものがいろいろあるのではないかと感じた。
簡単に言えば、社会が経済の主人公になる(経済民主主義の徹底)、という社会主義の構想を考えた場合に、古典的なマルクス主義の公式は生産や生産関係を変えるということだった。
消費は分配と一体もので、いわばそれは「川下」の議論、枝葉末節の問題なのであって、いくら分配=消費をいじってみても社会は変わらないのだ、というのがマルクスのプルードン批判だし、マルクス主義の伝統的な主張であった。だから応能負担の租税改革での再分配強化=社会保障充実とかはブルジョア的な修正主義だし、100%相続税やベーシックインカムなどというものも社会を変えることなどないのだ、という具体的主張となって現れた。
しかし、資本主義の中で積み上げられてきた実践は、そのようなラディカリズムの一面性を明らかにしている。
応能負担の税制改革は社会の平等化を進めているし、社会保障の充実は格差を是正し、人間の幸福に貢献してきた。
それだけでなく、消費者運動によって、購買という行為の中で企業の行動を、より社会によっていいものにしていこうとする実践は、明らかに一人ひとりの市民の目線で見て経済をコントロールする一つのハンドルやチャンネルを提供してきたと言える。
本書の終章で語られているエシカル消費、地産地消、推し活などはその一つであろう。
社会主義になった時の原則を「市民が主人公」「国民が主人公」といわずに「生産者が主人公」だというスローガンを掲げる左派があるけども、それはやはり狭いのではないか。生産者としての経済への参加だけでなく、消費者としての参加、市民としての参加が経済をコントロールしていく鍵となるはずだ。
そのことを考える上で、本書の終章もまたあるのだと思った。
というのは、本書の「終章」は2010年代以降である。
ここはいろんな要素があるが、一言で言えば消費者主権をどう確立するか、という問題意識が貫かれている。
これはまさに、国民一人ひとりというミクロなレベルで見たときに、どうやって主体的に経済に関われるかという問題意識そのものだと思う。
もちろん昨今の消費者主権の強調には、支配層のロールアウト(伸展型)新自由主義的な意図も隠されている。久保田貢は『ロールアウト新自由主義下の主体形成』(新日本出版社、2024)の中で、財界などの支配層はロールアウト新自由主義として、学習指導要領の中で主権者教育=自立を強調しながら、その実、自己責任を迫っていくということを指摘している。
ロールアウト新自由主義の特徴的なことばや関連用語が、〔指導要領の〕随所にちりばめられている。たとえば二〇一七学習指導要領「総則」に付けられた表「主権者に関する教育…」に「〔消費者の役割〕家庭科」押して、消費について例示されているのも同様である。…ニコラス・ローズのことば「消費を通じて私たちは、購買力の行使によって自らの生を形づくるように煽られている。…市場で選択する自由を行使することによって自分たちの存在の意味を理解することを強いられている。」(Rose〔1989〕1999=2016:188)を確認した。そのことと関係している。(久保田p.259-260)
だが、そういう支配層の意図の歪みも含めて、社会は発展していかざるを得ない、消費者主権が一種の自己責任的な影をまといながらも、社会の主人公としての市民を形成する一助になっていくことは間違いない。
来るべき社会主義は、市場経済をかなりふんだんに使った社会になるはずである。その際に、生産一辺倒の社会構想などは役に立つまい。資本を残し、市場を使い、その中で自由な活動をしながら社会としていろんなチャンネルを使ってどう制御をしていくのかを現実の社会の中から学ばないのであれば、左翼は与党として政治も社会も運営することなど到底できない。