もう十年ほど前の冬のこと。ある街で夕食を食べようということになり、連れが何かあたたかいものを食べたいというので、適当なもつ鍋屋になんとなく入ったら、これが良い店だった。鍋は美味く、何より店員さんの感じが良かった。好印象を抱いた。
そのちょうど一年後、また同じ街で夕食を食べることになった。そういえば良い店があったなと思い出し、同じ店に入った。しかし、なんだか様相が変わっていた。
店のメニューや内装は何も変わっておらず、記憶のままであった。しかし――店内の雰囲気がピリピリとしている。若い女性店員がホールを担当しており、その人物がどうやら店全体に緊張を与えているのであった――。テーブルの間を縫うように歩く彼女は、客商売とは思えぬすごい仏頂面で、ガタン!ガタン!と大きな音を立てながら皿やグラスを叩きつけるように配膳していた。彼女が注文を運ぶたびに店内の視線がこわごわそちらに向けられる。何だこれは。
私は、飲食店等の店員さんに過剰に愛想の良さを求める社会はよろしくないと考えている。とりわけ若い女性に人はそれを求めがちで、それはよくない傾向だと思う。私自身も愛嬌のあるタイプではないためこの傾向に苦しめられてきた。そりゃあ人情として、愛想良くされると好感をもってしまうし愛想悪くされると気に病んではしまうが、それはこっちの勝手である。私はできるだけ他人の無愛想に寛容でありたい。しかし――なんちうか、これは、「無愛想」を越えた何かや……。
彼女がどこかのテーブルで注文を取っている。すると他のテーブルの者たちは怯えたように様子をうかがう。明らかに異様だ。別に何か厭なことを言うわけではないし言葉の内容は普通。しかし、まるで喧嘩腰のようなひどく怒っているような応答なのだ。何がこわいのか上手く言えないがめちゃめちゃこわい。われわれもなんとか飲み物ともつ鍋を注文したが、注文を取られている間ずっとまるで叱られているかのような気持ちだった。もつ鍋を注文しただけなのに。なんなのだ。隣のテーブルはいかつい男性たちだった。乱暴な言葉遣いでちょっとヤンチャそうな集団であったが、彼らもその店員が鍋を運んできた後は、「なんか怒ってはるんやろか……」と低い声で囁き合っていた。
食事をしながら店内の誰もがどこかビクビクと一人の若い店員の挙動を気にし、怯えている。なんだこの店は!
無愛想な店員は数あれど、なかなかここまでの無愛想による恐怖支配は珍しい。誰も何も言わないが、店全体に気まずさが漂っている。そのとき、よりによって私の身に、「りんごジュースが異常に薄い」という問題が生じた。
私の注文したりんごジュースがなぜか、りんごジュースの味がせず、「水にうっすら風味がついている」程度の薄さだったのである。店員さんに言って替えてもらおうか……と思ったが、とても声を掛けられる雰囲気ではない。怒っている(?)人をそんなことで呼びつけるのは悪い気がして気が退けた。私の勘違いということにしよう……と呑み込もうとしたが、連れにも飲ませてみて「うわっ、コレは薄い!!」と言われたらば、そうだよなあ、お金は払ってるんやしこんな微妙水を飲まされるいわれはないしべつに言う権利あるよなあ、なんもうちが悪いわけやないし……と思えてきて、私は店員を呼んだ。
店員は無言で不機嫌そうにやってきた。
「りんごジュースがちょっと薄いみたいで……」
周囲のテーブルが静まり、シーンとした店内に私の声が響き、店の客ほぼ全員がこちらを見た。違う違う! 別にクレームを言いたいとかでなくて、ちょっとりんごジュースが薄いだけ! 隣の席のいかつい男たちが口を開けて私を見上げている。口から「(うおっ、言いよったで!)」「(ついに……命知らずが現れたぜ)」みたいな台詞が出ているのが見える。こんなヤンチャそうな人たちにこんな表情で見上げられることがあるとは思わなかったな。むしろ普段は店で苦情とか言うタイプやないのに! なんでこんなに「暴政についに反旗を翻した英雄」みたいになってんの!
これはあれやん。異世界転生的なお話で、主人公は普段通りの行為をしてんのに異世界ではそれがすごいことで注目浴びちゃって心ならずも英雄になってしまう、みたいなやつと同じ雰囲気やん。たかが薄いりんごジュースのことで……。
「は? りんごジュースですけど? 」
店員は応戦してきた(応戦も何もこちらは戦いを挑んではいないのだが)。うんうん、りんごジュースなのは疑ってないんです、ただ異様に薄いだけで……。
「じゃあ氷抜きで作ればいいんすか?」
いやそれは知らんけど。私はできるだけ穏当に丁寧にりんごジュースの薄さを説明した。別に怒ってるわけじゃないんですよ~~ということを伝えるため、できるだけ情けない笑顔を作った。なぜこんなに気を遣って薄いりんごジュースの説明をしているのか。店員は、「チッ」と舌打ち――はさすがにしなかったと思うが、限りなく舌打ちに近い態度で無言で背を向けた。
やはり言わないほうがよかった――。私は後悔し始めた。周囲のテーブルの者たちはそれぞれの食事と会話に戻ったが、微妙にこちらに注意を払い続けているのが分かる。人々の関心が痛い。りんごジュースが薄かっただけなのに。後悔し始めて五分ほど経過しただろうか、ついに、その店員に呼ばれた上司らしき男がやってきた。わー!上の人出てきたー!大袈裟になってしもた!でもこれで話が収まる~………と思いきや、上司の男も不審そうな仏頂面で持っていた瓶をニュッと突き出しぶっきら棒に言った。
「これで作ってるんスけど」
突き出された瓶はりんごジュースの原液らしかった。お、おう……これで作ってると言われても……。知らんし………。隣のテーブルの男達は完全に、ハラハラとした表情でこちらを見守っている。
「ええ、でもとにかく水みたいなんですよ~、ちょっと見ていただけませんか?」
別に喧嘩がしたいわけではない、薄いりんごジュースのことなんぞで……。努めてフニャフニャと笑顔を作って説明すると、上司の男は溜息をつき、私からグラスをひったくるようにして去った。ほどなく、新たにちゃんとりんごジュースの味のりんごジュースが出てきた。その後やってきたもつ鍋の味の記憶はない。
この話に特にオチはない。ただ、普通に感じの良かった店に一年の間に何があってああなってしまったのか。なぜ皆があんなにただ一人の店員に怯えていたのか。「カスタマーハラスメント」という言葉ができるほど偉そうな客もいるというのになぜ誰もあの店員には何も言えなかったのか。それほどの威圧感をどうしてただ一人の若い店員が醸し出すことが可能であったのか。なぜあんなに薄いりんごジュースが生成されてしまっていたのか。時々思い出す。