前回の戸谷洋志さんの『SNSの哲学』が私にはとてもよかった。
この人の他の著作も読みたくなり探していたら見つかった。
『生きることは頼ること-「自己責任」から「弱い責任」へ』

(グーグル画像より)
「生きることは頼ること」 そうもいえるなと思った。
(現実は「自立」ばかり説かれる。
「他人に頼ったらいけない」と言われる。
個人的な思い出に、親しい叔父に「ワシに頼ればいい」と言ってもらったことがあり嬉しかった。
長じてアルバイトしていたとき、先輩が仕事の合間に喫茶店でコーヒーを奢ってくれ、
お礼を言うと「あんたが先輩になったら同じことすればいいよ」と笑っておられた。
私は頼れる人にはなれず、後輩に奢りもしなかったけれど、自分を頼ってくれる人が現れたら
精いっぱい応えたい《もう遅いか…》)
幼いころから大人になるまで、「頼る」(「依存」)ことは「自立」「自律」とは
反対のことなので良くない、悪いことのようにしつけられ、社会に出てからも、
そういう価値観が説かれる。
ホント、窮屈だ。
「自己責任」なんて、窮屈の極みというべき。
大の大の…大嫌いな言葉。
いいじゃないか、頼り頼られる関係。お互いさま。
人はひとりでは生きられない。
気が付いていないだけのこと。
(死ぬことはひとりでできるけれど、生まれ、生きることは周りがあってこそ。
とても強く印象に残ったところだけ、3回に分けて引用、紹介します)
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「〈はじめに〉
あなたの生活は、…自分では意のままにならないいくつもの大きな歯車に、
完全に組み込まれている。そこには、絶望的なくらいに、余白も隙間もない。
…
責任を引き受けることは、他者を頼ることと矛盾しない。
第一章 自己責任論の構造
①〈自己責任論と新自由主義〉
社会保障に頼らないことを、あたかも道徳のように思わせている
…
②〈自己責任論の定着〉
ある行為の結果が「私」の責任なら、それは「私」以外の誰かの責任にはなりえない。
したがって、誰かに責任を引き受けさせた時点で、それ以外のすべての人間は責任を免除される…
自己責任論には、そうした機能も備わっているのである。
…
③〈教育における自己責任の言説〉
子どもたちは、自分では自由に選ぶことができない環境によってもたらされた結果に対して、
責任を負うことを求められる。…不合理だ。自己責任を称揚する教育は、子どもたちをそうした
ダブルバインドへと陥らせるのである。
…
④〈反転する自責と他責〉
自己責任論は人々を無責任にする。
(つまり「本来なら責任がある者を免責するため」に使われ、「自己責任」があるとされる
特定の個人が「スケープゴート化」される。「本来なら責任がある者」を「社会」と言い換えたら
よくわかる)
…
⑤〈迷惑への不寛容〉
「強い責任」の構造
強い責任の排他性は、責任を果たすために人々が助け合う、ということを不可能にする。
(一人ひとりは弱い存在。特定の個人に「強い責任」を持たせることは必然的に強い「排他性」
を伴い、その「排他性が看過できない深刻な事態を引き起こすこともある」)
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〈はじめに〉
「責任を引き受けることは、他者を頼ることと矛盾しない」
「責任を引き受けること」とは、「自分の人生に責任を持つ」
「責任を持って生きる」ということ。
(言い換えれば、「主体的に生きる」こと)
そのことと「他者を頼ること」は明らかに違う。まったく別なこと。
(人生は「さまざまな偶然との出会い」であり、「ままならない」ものだ。
ままならなくても、自分がまったく望んだことのない事故や事件の当事者になったり
巻き込まれたりし、面倒な状況に遭遇しながらも逃げない。
つまり「責任」をとろうとする。
《その際、何をするのが「責任をとる」ことになるのかと悩むことを含め》私たちはそんな人を
描いたドラマやノンフィクションを見て感動するけれど、
反対に、ままならないことで犯罪に手を染め、自分がこうなった、こうしたのは親のせい、
社会のせい、アンタのせいだと、その罪を他者の責任に転嫁しようとする者もいる。
《ふり返れば私も自分に都合の悪いことを「社会のせい」だと軽口を叩くことがある。
「軽口」とはいえ中には重く、冗談ではすまない、本気でそう思っていることも…》
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①〈自己責任論と新自由主義〉
「社会保障に頼らないことを、あたかも道徳のように…」
「生活保護」を受ければいいと思っていても、受けない。
受けるとしても躊躇する。
小さいうちから「他人に迷惑をかけない」「他人の世話にならない」
という道徳、価値観を教えられ、育っているから。
子どものときから長い時間をかけ、社会の隅々まで空気のように行き渡らせた
もの。
(その影響はとてつもなく大きく、怖い。
私は入院のときも、いまも、労災という社会保障を受けている。
《現在は完全に納税者の方々のお世話になっている》
障害者になったのは仕事中の事故だったので労災と認められ、「社会保障」の世話になった。
「仕事中」だからよかった《よくはない》が、同様の仕事、作業を私事としていての事故
だったら「自己責任」で終わり、社会保障の対象とはならなかったはずだ。
《そのことを思うたび、ゾっとする》。
そう想うと「不幸中の幸い」、ウンがよかったと言わざるを得ない)
「道徳的」ということには、慎重にならなければならない。

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②〈自己責任論の定着〉
「誰かに責任を引き受けさせた時点で、
それ以外のすべての人間は責任を免除…」というのは
考えてみれば恐ろしいことだ。
(「冤罪」を想った。
その事件の犯人が○○とされれば、「それ以外《○○以外》のすべての人間は」犯人とはされない。
○○は犯罪を犯していなくても、裁判で有罪判決を受ければ責任がなくても責任を負わされられる。
○○という人間は、警察、検察、裁判所、つまり司法という権力、社会によって抹殺される。
まさに社会の「生贄」と呼ぶにふさわしい。
21世紀になっても、「生贄」がある事実にゾッとする。
「冤罪」があるという事実。
真犯人は永久に捕まることはないという事実)
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③〈教育における自己責任の言説〉
「子どもたちは、自分では自由に選ぶことができない…結果に対して、
責任を負うことを求められる」
「自分では自由に選ぶことができない」のは大人になってからもそうだけど、
社会経験のない、「社会の厳しさ」を知らない子どもたちに、
彼らの将来を思えばこそという(屁)理屈で「自己責任」が説かれ
教育される。
学校というところは、いまある社会へ子どもを(動物の飼育のように)
馴致させる働きを持つもんだなあと、いまはつくづく感じる。
(もちろん同時に「勉強」、知識の習得という大切な働きも)

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④〈反転する自責と他責〉
②で述べたことと同じだ。
ある事件の「本来なら責任がある者(真犯人)を免責するため」の「冤罪」。
「自己責任論は人々を無責任にする」
ある事件が起きても、その事件(事故を含め)は当事者(犯人とされる人)が
起こしたものであり、自分には「責任」のかけらもないので無関係
と断じることは、「人々を無責任にする」。
「特定の個人が「スケープゴート化」される」ことが起きる。
つまり、冤罪が生まれる。
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⑤〈迷惑への不寛容〉
「自己責任論」でいわれるのが「強い責任」であるとしたら、
著者は「弱い責任」を提唱する。
なぜなら、「強い責任の排他性は、責任を果たすために人々が助け合う、
ということを不可能にする」からだと。
人は他の人に「迷惑」かけることなく「他者を頼ること」なく、
生きることはできない。
誰かに「迷惑」かけたり、誰かを「頼」ったり、よくしてもらったら、
誰でも少しくらいは「責任」みたいなもの
(私は「恩義」とか「借り」を想起したのですが、ネットで「責任みたいなもの」と検索したら
AIによる概要には責任感、義務感、使命感、当事者意識、説明責任などがあり、
与えられた役割を最後までやり遂げようとする姿勢、結果に対して誠実に向き合う心構え)
を感じると思う。
そういう他人への信頼はとても大事だと思う。

雪とけて 村いっぱいの 子どもかな 小林一茶