いつのころだったか、ドリアン助川さんの映画『あん』を見てとても感動した。
(『あん』に刺激され、その後、この方の『バカボンのパパと読む「老子」』を読んだ。
文庫本だったのでトイレに置いて何日もかけて読んだ。こっちもホントよかった)
最近、この方の、
『動物哲学物語 確かなリスの不確かさ』 という作品を知って読んだ。

(グーグル画像より)
書名には「動物哲学物語」とある。
(黄色の帯には「どうして僕らは『ここに在る』の?」と)
世界、地球にはヒトを含め、数えきれないほどの多くの種類、
さまざまな動物がいる。
イヌやネコなどペット(愛玩)動物、ウシやブタ、ニワトリなど家畜になる動物は
ヒトに馴染み深いし、役に立っているのでわかりやすい。
が、そうではない、すなわち圧倒的多数は私たちヒトにとっての「存在目的」
「存在意義(意味)」がわからない、あるいはわかりにくいものだ。
(そもそも「存在」は、在るから「在る」のであり、居るから「居る」だけなのに
《前の記事での養老孟司さんの言うように》人は目的やら意味やらを問いたがる厄介な存在)
ドリアン助川さんは、その「圧倒的多数」のなか、いくつかの動物の気持ちに
なり、想像し、物語にされた。
それが、「どうして僕らは『ここに在る』の?」の話。
(サルやキツネなど、たくさんの「動物物語」があったのですが、モグラ、バク、ゾウガメ、
ペンギンの物語から私の心に強く残った言葉だけを紹介・引用します)

ーーーーーーーーーー
「第8話 モグラの限界状況
(若いモグラが、自分たちモグラはなぜ土の中、まっ暗で狭いトンネルの中で一生を過ごさ
なければならないのかと運命、宿命を嘆いていると、長老のモグラじいさんが言う)
「ヤスパース(ドイツの実存主義哲学者)はのう、死やの罪やの、どうにもならへん壁に
出くわすことを、『限界状況に直面する』と表現したんや。
そのときわしらの心は初めて、壁を超えた向こう側の、ごっつい存在を意識するようになるねん。
それが、生きる、ゆうことの一つの意味やってヤスさんは言うねん。
わしはその講義を聴いて、このちっこい目からウロコが落ちたような気分になった。
すなわち、しょうもない生活も、ご先祖様から引き継いだトンネルの壁も、
わしらモグラにとっての限界状況なんやろうと思うたわけや。
それやったら、そこからやってくる苦痛は、えらい気づきをわしらに与えるためのお膳立て
ゆうことになるんちゃうか。わしは、そう思った」
…
「状況はなにも変わらへんかった。上を掘るだけの生活も、わしの心も、まったく変わらへん。
わしは気づいた。わしらは生活のなかで限界状況に直面しとったのではない。
もともと、わしらそのものが限界状況の化身やったんや。
それやったら、どんな哲学を持ちだしても救いようがあらへん」
…
(以下の部分はモグラじいさんの言葉ではなく、このモグラ物語の終わりに著者が述べたもの)
今はただ、モグラという生き物として暗闇に出現していますが、本来はこの星の、土そのもの
だったのです。いえ、星そのものだったのです」
「第13話 バクの茫漠たる夢
(「ピラーニャ」というのは物語に出てくるバクの名前。そのピラーニャがバクとして生まれた
自分の出自について悩んで誰か《誰だったか忘れました》に相談したときの誰かの言葉)
「ピラーニャたちだって、ピラーニャとして生まれようとして自ら欲したわけではない。
でも、ピラーニャとして生まれたのだから、ピラーニャとして生きているのだ」」
「第19話 ゾウガメの時間
だれの人生も未完成のまま完成するのではないだろうか?
そして、物語と時間は他者に受け継がれていく。…
人それぞれに固有の時間があり、ゾウガメにはゾウガメの時間がある」
「第20話 飛べない理由
(「世界で最も過酷な子育て」をするといわれている南極のコテイペンギンの物語。
あるとき物語の主人公のペペに友達のギーギが言い、あるときペペがギーギに言う)
「ペペ、アデリー(同じ南極に棲むもう一種のペンギンアデリーペンギン)の巣にも、
僕らの旅にも、きっと理由があるんだよ。僕らにはわからないけれど」
…
「ギーギ、いつだったか君は、飛べない翼にもきっと使いみちがあると話してくれたね。
僕にはようやくわかったよ。僕らは海のなかで飛ぶために(海のなかを素早く潜り、自由に
餌となる魚を獲るために)この翼を天から授かったんだ。…
僕らの翼は、愛するものと触れ合う(コウテイペンギンは卵を孵化するために仲間たちみんなで
体を寄せ合い触れ合って南極の凍える寒さを防ぐ)ためにあったんだ。ギーギ、ありがとう」

ーーーーー
自分の場合はヒトとして生まれ、その瞬間から人間として育てられ、
それなりには「人間らしく」なってきたと思うけど…
(生物学、生態学的にはヒトも動物の一種なので、一人残らず完璧、100%「ヒト」だけど
「人間度」というか「人間らしさ」ということを考えたら、そうはいかんと思われる。
《でも難しい問題は「人間らしい」とはどういうことか?だろう》)
モグラもバクもゾウガメもコウテイペンギンも、他のすべての動物たち
(植物たちも)も、自分自身を精いっぱい生きている。
ーーー
動物たちが「自分自身を精いっぱい生きている」ように、
私たち人間も「自分自身を精いっぱい生きている」だろうか?
(「可能性を求めて…」「本来の自分を探して…」納得するまで迷い続けること。
人間はそれができる社会を築いた現代だからこそ、そういう生き方もいいけれど、
「しょうもない生活も、ご先祖様から引き継いだトンネルの壁も」のモグラ、
「ピラーニャとして生まれたのだから、ピラーニャとして生きている」バク、
「ゾウガメにはゾウガメの時間がある」というゾウガメ、
「海のなかで飛ぶために」「愛するものと触れ合うために」「飛べない翼にも」「使いみちがあ」った
ーーー
私はたまたまヒトとして生まれたけれど、モグラで、ミミズを食っていた
かもしれない。
(たまたま日本人だったので主に米食だけど、日本に生まれず、トウモロコシが主食だった
かもしれない)
ドリアン助川さんは、人間の立場からモグラたちの気持ちになり物語にされて
おり、もし自分がモグラだったら…バクだったら…ゾウガメだったら…
コウテイペンギンだったら…物語を作られた。
人間だからこそできる想像。
「かもしれない」「だったら」と想像してみる、
相手の立場になって自分を見つめることの必要、大事なことを痛切に感じた。

せはしなく 暮れ行く老の 短き日 虚子