『生きるみちしるべ』 いろいろな方のエッセイが集められた本を読んだ。

(グーグル画像より)
その中に養老孟司さんがおられ、「意味」について書かれていた。
養老さんは、私たちが「こうだ」と普通に、無意識に思っている
(つまり「信じている」)ことを、哲学者でなく解剖学者なのに、そもそも…と
根本に立ち返って考えられる。
(いま気がついたけれど、”解剖というの”は生物の体を根本に立ち返って「分解」する。
だから人文科学における”哲学”と共通するところがあるのかもしれない。
養老さんの本を読んでいたらしばしばハッとすることがある。
「そうか、そうだったのか!」 新たに気づかされることがよくある)

ーーーーーーーーーー
「風が吹いて、時間によって明るさも変わり、小鳥がさえずる。
みんな意味なんてない。
意味がないものを自然というんです。
〈「意識」と「感覚」のぶつかり合い〉
世界は意味のないものに満たされているのに、都会はそういうものを全部排除してしまう。
…
(2016年の神奈川県の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を刺殺、ほか多数の職員を
怪我させた相模原事件の犯人植松聖の言葉。障害者の)「人生にどういう意味があるか」
その言葉の裏にはすべてのものには意味がなければならない、しかもその意味が自分にはわかるはず
だという思い込みがあります。
これは、自分がわからないことを「意味がない」と勝手に決めつけるところに問題があります。
なぜそうなったのか。
(人類は)すべてのものに意味がある「都市」(「人工」)と呼ばれる世界を作ってしまい
その中でしか暮らしてこなかったからです。
自然は「意味」がないものに満ちている。生命に人間がわかる「意味」なんてありません。
…
多くの人たちは「意味」にとらわれすぎている。…
「意識」と「感覚」がぶつかっている。…
「感覚」こそ大事にしなければならない。…
「わかる」ことより「感じる」を!
…
〈ヒトは”死なないもの”に憧れる〉
そもそも人はなぜ、コンピューターに代表されるデジタルデータの世界を…作ろうとしているのか。
便利だから、合理的だから、経済的だから…
その言葉の裏には…”死なない”(という”幻想”がある)…
「電源を切ればそれっきりなのに」」

ーーーーー
「みんな意味なんてない。
意味がないものを自然というんです」
しみじみと味わいたい言葉だと思った。
ここでいう「意味」とは、言葉を換えれば「(人間にとっての)価値」
(というより)「(人間だけの)価値」だろうか?
「みんな意味なんてない」 老いれば死ぬのは「自然」なこと。
日本に地震や台風が起きやすいのは日本列島の地球的な問題であるし、
地球規模のエネルギーの大量消費により地球を温めれば当然暑くなり、
火災も起こりやすくなる。
そのこと自体に「意味なんてない」。
ーーー
(人間以外の自然についてはそうでも、人間についてはとなると怪しくなる。
つい、意味を求めてしまう)
その人たちの「人生にどういう意味があるか」といって障害者を殺害した
植松聖の「思い込み」が、自分にはまったくないと胸を張って断言する自信は
私にはない。
(そういう自分がとても恥ずかしい。
恥ずかしついでに言うと、私は事故で平衡障害者になって19年の「ベテラン」だけど、
自分の障害を「程度の問題」とし、もし視力もなくなっていたら、もし歩行もできなっていたら
寝たきりになっていたら…と想像し、自分を憐れみ、慰めた。
「可哀想な自分」と思い、障害の程度、度合いで「これくらいの障害でよかった」と思った。
よく「差別」はいけないと書くけれど、社会的な差別行為でなく、自分という個人の差別心に
目を向けるとき恥ずかしくなる。
《その恥ずかしさ、斬鬼の念は抱えて生きなければならないと思う》
しかし、自分の「人生にどういう意味がある」と疑うようなことは一度としてなかった。
私は「能天気」な性格ではないが、障害者になったことを自分の「人生」を問うような深刻さで
受け止めてはいなかった。
「ウンが悪かったな」とは確実に思ったけれど《これも「思い込み」だろうか》)

ーーー
「「わかる」ことより「感じる」を」
このことも、しみじみと味わいたい。
「多くの人たちは「意味」にとらわれすぎている。
「意識」と「感覚」がぶつかっている。
「感覚」こそ大事にしなければならない」
「意味」を問うてもわからない、納得できなければ無理してわかる、
理解する必要はないということだろう。
「頭ではわかるけど、でもなぁ…」ということがある。
そんなときは「でもなぁ…」という心の引っ掛かりの方を
大事にしなければならない。

ともかくも あなた任せの 年の暮れ 小林一茶