今日は最後、⑦~⑨です。
⑦〈自分を肯定するためには〉
⑧〈「自立」は失っても、「自律」は失わない〉
⑨〈「手放す」ということ〉
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⑦〈自分を肯定するためには〉
good enough(これでよい)
自分が大事な人間だと思うためには、「good enough」、これでいいんだと思えることが大切です。
⑧〈「自立」は失っても、「自律」は失わない〉
(他者に圧力を受けて「自立」を失うことがあろうとも)「自律」のほうは、最期までできます。
「自律」は、さまざまある選択肢の中から、自分で選ぶことができるということだからです。
選ぶことができる、ということが援助になります。
⑨〈「手放す」ということ〉
自分のかわりに、心から信頼できる誰かにゆだねる。…
自分自身でやるのではなく、その大事な自分で選ぶことを手放すことができる。
ここになお自己決定できる自由があり、手放すという選択肢を選べるのです。
その、ゆだねることのできる信頼できる誰かというのは、人間かもしれないし、運命かも…、
神や仏かもしれません。

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⑦
〈自分を肯定するためには〉
「good enough(これでよい)」はとても大事。
(「Very good(とてもよい)」より大事。生きていくうえでいちばん大事)
「これでいいのダ!」
(この言葉を私は座右の銘としている。
初めてこの言葉を聞いたときは、一種のギャグだろうと気にも留めず流していたけれど、
長く生きるといろいろあり、この言葉は、何かの言葉の語尾につけて面白がる「シェー!」などと
違うとだんだん感じるようになった。
赤塚不二夫自身がどこまで意識していたのかは知らないけど、「これでいいのダ!」はとても深い。
「自分を肯定する」言葉。まさに「good enough(これでよい)」。
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またまた仏教の話ですが、私がよく紹介する仏教者ひろさちやさんは徹底した「good enough
(これでよい)」「これでいいのダ!」主義者。
ひろさんは、自分が「よくない状況、状態」にあって、それが自分の力でどうにもならないときは
《「諦め」るのではなく「明らめ」て》「なるようにしかならない」から、いまの状態を
《たとえそれが辛いものでも》「good enough(これでよい)」「これでいいのダ!」》と
感謝しようとおっしゃる。
それが「不運」としか言いようのないものであっても、その渦中にいる自分を愛そうといわれる。
たとえば病気。
現代の医療では治らないといわれている重い病気になったとき、東洋医学などの代替医療を
自分の努力で見つけ、自分の体に見事に合って治ればいい。
けれど治らない、死ぬことになっても、よくないわけではない。
つまり、治っても「これでいいのダ!」 治らなくても「これでいいのダ!」
確かに重い病気になったこと、自分の努力が実らず治らなかったことは「不運」には違いないけど
=「不幸」ではない。
仏さま《キリスト教の神さまも》はすべての衆生に慈悲《愛》を注がれる。
その結果《現実》はまちまちで「幸運」もあれば、「不運」もある。
「不運」にも重い病気になっても、死んでも、そういう自分を愛し、仏さま《神さま》に
「ありがとうございました」と感謝できる信心を私も持ちたい。
前に記事で書いたアウシュビッツから奇跡的に生還したヴィクトール・フランクルの言葉
「人生が生きることを求めている」と同じだと思う)

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⑧〈「自立」は失っても、「自律」は失わない〉
⑨〈「手放す」ということ〉
は(両方とも前に紹介しましたが、とても大切なことなので)繰り返して述べられていた。
⑧の「「自律」のほうは最期(死ぬ)までできます。…自分で選ぶことができる」
⑨の「自分で選ぶことを手放すことができる」
二つのことを合わせて考えると、
「自分で選ぶこと」、すなわち「自律」が、「手放すこと」に繋がっている。
本当は「治りたい」「生き続けたい」と願っても、肝心の選択肢の中には「治る」
「生き続ける」はない。
(いまの場合はホスピスでの話だから)「自分で選ぶ」、「自律」とはいっても
「死ぬ」しかないので、「自分で選ぶ」、「自律」は自分の死に方の問題に
なってしまう。
「死に方」は生き方の行き着くところ。
自分の死に方を思ったとき、私も「手放すという選択肢を選」びたい。
(手放すにはゆだねる相手がいなければならない。
「ゆだねることのできる信頼できる誰か」
「誰か」は「人間《ならツレ》かも…、運命かも…、神や仏かも…」
「かもしれない」ではなく、私はこういうことは欲張りだから全部ともゆだねたい)

くちびるを 出て朝寒の こゑとなる 能村登四郎