『いのちはなぜ大切なのか』 小澤竹俊 ・著

(グーグル画像より)
ネットの本の紹介(「アマゾン」)には
「本書は、「いのちはなぜ大切か」という非常に難しい問いに対し、ホスピスで終末期医療に
長く従事されている著者が、丁寧に平易に答えた本」とあり、読んでホントによかった。
平易な文章、ていねいに書かれています。
(心に残った九つのことだけ三回に分けて引用、紹介します。今日は①~③)
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「①〈美しい話ばかりでは、いのちの大切さは伝えられない〉
非日常の美しさは、長くは続かない…
(日々を大事に生きようと)「今日しかない」と思ってずっと生きるということは、
かなりきついこと…
②〈なぜすべてのいのちは大切か?〉
(その)問いかけに対する一般化できる答えはないかもしれないけれど、
「なぜあなた個人のいのちは大切か」という答えなら見つかるかもしれません。…
個別性の高い答えをていねいに見つけていくことで、普遍的に共有できる「考え方」なら
見つかるかもしれない。
③〈 ○×で答えられる問題と、答えられない問題〉
「死はこわい」は、○×で答えられるか?
(という問いには著者は、「死」は「形而上の問題」だから○×では答えられないという。
けれども)「死はこわいと思うこと」は正しい場合と正しくない場合がある
…
人は、自分の支えを得たとき、たとえ苦しみの中にあっても、人を傷つけず、
自分自身も傷つけないで、おだやかに生きられる可能性があります。
( 「死はこわいと思うこと」を軽減し「苦しみから自由になる」支えに「手放し感」がある。
それはとても大切だ)

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①〈美しい話ばかりでは、いのちの大切さは伝えられない〉ということ
”いのち”は尊い。
尊いだけでなく(個人にとっては)絶対的だから
”いのち”の話は美しい。
けれど、そればかりだと「いのちの大切さは伝えられない」と著者はいう。
”いのち”の具体的なあり方は、「生きる」という過程、プロセスそのもの。
それは生きている中で出あう”すべて”だから、経験したくないイヤなこともあり、
美しくないどころか醜いことさえあることを知ってしまう。
そうではあっても生まれた限りは生の本能により生きている。
生きる限りは「”いのち”は尊い」と信じ、よりよく生きたい。
「生きる」を意識し、死刑囚になったような気持ちで日々を過ごそうと思う。
(日常の中に美しさを発見、見ようと努める。
生きていることの「喜び」を感じ、「気づき」を得たい。
しかし、そんな非日常的な態度は、たまたまその時その場では喜び、美しさの発見につながっても
長くは続かない。
なぜなら、人は死ぬまで生きていかなければならないので、
「「今日しかない」と思ってずっと生きるということは、かなりきつい…」から。
《私の経験では「かなりきつい」というより、そこまで行く前に「今日しかない」という意識が
どこかへ飛び、消えてしまった》
ともかく、著者のいうことは実感をともなって理解できた。
「今日しかない」と思ってを日々の目標にして生きるにしても、空回りに終わることが多い。
が、自分の”いのち”や「生きる」を鼓舞するため、私もこういう努力をしてみる。
《本を読むのも”いのち”や「生きる」を鼓舞してくれる言葉を見つけること》)

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②〈なぜすべてのいのちは大切か?〉ということ
自分が”いのち”ある存在という事実、自分の”生きる”が、
自分にはすべての前提であり、大元。
(そもそも、そうでなくては人生は何も始まらない。
「なぜすべてのいのちは大切か?」と問うこともできない。
何にしても、私たちは先ず生きていなければならないのだ。
そう思うと、イジメなどで自殺する子どもが可哀想でたまらなくなる)
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生きているためには、自分の”いのち”、自分の”生きる”を肯定できる、
喜べる自分にとっての何かを持っているはず。
現に生きている人は、「個人のいのち」の「大切」さがわかっているはず。
ならば、
「個別性の高い答えをていねいに見つけていくことで、…
普遍的に共有できる「考え方」なら見つかるかもしれない」
ならば、
みんながそれぞれ「個人のいのち」の「大切」さを出し合って、
誰もの「個人のいのち」が「大切」される社会を築くことが
「普遍的に共有できる「考え方」」だと思った。
(そのために、「個人のいのち」を脅かす者には抵抗し、闘わなければならない。
「闘う」といったら勇壮で、自分なんかとてもとても…と尻込みするけど、私には少なくとも
こんなブログ記事を書くことも小さな抵抗のつもり。
先日、買い物で歩いているとき、ゴォーンと爆音のような唸る音が聞こえるので空を見上げると、
3機の自衛隊ヘリが編隊を組んで飛び去った。戦争などの訓練なんだろう。
愛読ブログに、高市《大嫌いな人物なので呼び捨てにします》が首相になって日も浅いのに、
中国を刺激する発言をしたことを案じての記事があり、共感のコメントがあった。
私もまったくそうでコメントした。お返しコメントに「中国と戦争…」とあった。
《あれだけやり合っているトランプと習近平であっても戦争にまではならない。
アメリカは大きいからだろうか。
日本は小さい。
バックにアメリカという大きな味方がついているから、それを信じ、高市はああいう発言をした
のだろうが、イザというとき、「日米安全保障条約」というものがあっても、
アメリカが守ってくれるとは限らない。
国家-ごく少数の支配的立場にある者たち-が、国民-大多数の被支配者-に対してどんなに冷酷
冷たいか、卑怯か、約束を守らないかを、私は読んできた本、テレビドキュメンタリー番組などの
多くでとても強く感じた。
国は絶対、信じてはいけない》
高市早苗という人物は安倍政権で総務大臣にあったとき、当時の安倍政権に批判的なテレビ番組
《多くの視聴者に大きな影響を与える》に出ていたキャスター、解説者、ジャーナリストたちを
「偏向」という本人の偏見で追い出した。
私はそれまでNHKの『クローズアップ現代』、TBSの『報道特集』、テレビ朝日のニュース特集
ワイドショーに、本来あるべきメディアの批判精神を感じる人が出ているのでよく見たけれど、
この人たちが一斉に出なくなり、以後、ほとんど見ないようになった。
高市がトランプと気が合うのがよくわかる。
「歴史は繰り返す」という。
前の戦争から80年。たったの80年。
「平和」になれっこの自分、私たちは現代の日本に戦争なんか起きるはずないと思っているけど、
わからない…
《死ぬのはイヤだが、老衰や病気など「仕方ないなぁ」と嘆きながらも、親しい人にはちゃんと
感謝できるが、戦争で死ねばできないだろう》)

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③〈 ○×で答えられる問題と、答えられない問題〉ということ
(著者は「ホスピスで終末期医療に長く従事されている」ので、本では死の問題が
「「死はこわい」は、○×で答えられるか?」という形で示される。
「死」は「形而上の問題」だから答えられないというのが著者の答えですが、
長年の「ホスピスで終末期医療に長く従事」する医者としての経験から
「「死はこわいと思うこと」を軽減し、「苦しみから自由になる」支えとしての
「手放し感」」の大切さがとても強く説かれていた)
「手放し感」
私はこれでも仏教者の端くれで、仏教の「こだわらない(執着しない)」という
一種の「悟り」のようなものかと思う。
(ちなみにネットのAI による概要によれば「スピリチュアルにおける手放しとは?
