『勉強の哲学 来るべきバカのために』 千葉雅也

たいへんおもしろい書名ですが、読んでホントにおもしろかった。
(サブタイトルがちょっとふざけている感じがするけれど、真面目な本です。
前に書いた『言語が消滅するとき…』がよかったので、著者の他の本も読みたくなり
探していたらこれが見つかった。
強く刺激された五つの話のうち、今日は三つ)
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「① 〈勉強とは自己破壊〉
勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。…
言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になること」
(「ノリが悪い」とは、ネットのAIによれば「周囲の雰囲気や勢いに合わせるのが苦手で、
周りの人が楽しんでいる状況に加われない様子を指します。これは、場の空気を読めない、
または「メリットがない」と考えるなど、周囲との協調性に欠ける…」
ということは、著者のいっていることは、
いままで習っていた、教えられていたことを一度は疑ってみる。そしてこれからはみんなが
こうだなと言っていても、みんなが楽しんでいても笑っていても、
そんなもんかと覚めた眼で見ること。
だろうか?)
「② 〈自由になる、可能性の余地を開く〉
もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。
環境依存的に非自由だから、行為ができるのです。…
無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要…
有限性とつきあいながら、自由になる」
(「絶対的な自由」いうものはなく、現実には「自由」は《よくいわれるように》必ず、
○○からの「自由」であり、○○への「自由」というように「有限性」と一体となっている)
「③ 〈環境のコード、ノリ〉
環境における「こうするもんだ」(コード)とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」…
ノリとは、環境のコードにノってしまっていること
…
外から影響されていない「裸の自分」というものはない…
自分は環境のノリに乗っ取られている…
たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、
分析的には意識されていない。…
背後にあるコード=「こうするもんだ」を、退いて客観視することができていません。…
いかなるコードも、特定の環境の「お約束事」にすぎません。
(すなわち「完全な自由はない」)
…
その場にいながら距離をとることを考える必要がある。…
それを可能にするのが「言語」」

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①
「勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である」
真の勉強は、これまでそうだと思い、考え、信じ込んでいたことを疑ってみる。
(極端にいえば)自己破壊。
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「哲学」は、日々の「生活」の問題でなく、たまに遭遇する「人生」の一大事には
必要だ。
(「哲学」という言葉が取っつきにくく、良くない)
「哲学」的な見方、考えの基本は、(ネットによると)「常識や当たり前を疑い
物事の本質を見抜くこと」。
初めの勉強は、世の中のことは何も知らず、経験もない子ども時代だったので
ただ一方的に教えられ、受け入れるだけで、物事の「常識や当たり前を疑い…」
などできるわけない。
でも、大人へと成長した私たちはさまざまな人生経験を積んでいるので、
こんどは大人としての、後の勉強をしなければならない。
(「物分かりがいい」といわれる大人になるためにではなく、
「常識や当たり前を疑い…」ができる大人になること。
《だけど私は若いとき、自分の直面した現実の苦労から逃れる言いわけとして
「常識や当たりに前を疑い…」を都合よく利用した。恥ずかしい…》)

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②
「環境依存的に非自由だから、行為ができる」
考えてみればわかるように、私たちは自然であれ、社会であれ常に何らかの
「環境」に「依存」しなければそもそも存在できない。
「環境」に「依存」しているからこそ存在でき、何らかの「行為ができる」。
ということは、「環境依存的に非自由」であらざるを得ない。
「自由」というとき、具体的には○○という(つまりある限定された、有限な)
何らかの「行為ができる」ことを意味している。
(引用文に「もし「完全に自由にしてよい」となったら次の行動を決められない」とあるのは
「完全に自由」というものはあり得ないので、「もし」と初めに述べられているのだろう)
何らかの「行為ができる」ことは、現実の中で「有限性とつきあいながら、
自由にな」っているわけなのだ。
(つまり、その「何らかの「行為ができる」こと」を妨げる何かに抵抗、克服して、
「自由にな」っているわけ)

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③
「いかなるコードも、特定の環境の「お約束事」にすぎません」
こういうときは○○する(すべき)「こうするもんだ」(コード)というのは
あくまである特定の社会(特定の環境)の「お約束事」(ルール)。
(「こうするもんだ」《コード》とは「常識」「普通」のこと)
自分がその「常識」「普通」を正しい(つまり「良識」と)信じているなら、
そうすればいいけれど、そうでないのなら疑ってみた方がいい。
(何故なら「たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている
状態であって、分析的には意識されていない」から。
つまり、「自分は環境のノリに乗っ取られている」。ということは自分が暮らしている社会に
よく言えば「なじんでいる」。
悪く言えば「吞み込まれている」)
「距離をとること」、「それを可能にするのが「言語」」
強く心に響いた。

昔おもふ しぐれ降る夜の 鍋の音 鬼貫