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2025.11.14 来るべきバカのために(前)

 『勉強の哲学 来るべきバカのために』  千葉雅也 

 

 たいへんおもしろい書名ですが、読んでホントにおもしろかった。

(サブタイトルがちょっとふざけている感じがするけれど、真面目な本です。

前に書いた『言語が消滅するとき…』がよかったので、著者の他の本も読みたくなり

探していたらこれが見つかった。

 

強く刺激された五つの話のうち、今日は三つ) 

 

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「① 勉強とは自己破壊

勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する自己破壊である。…

言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になること

 

(「ノリが悪いとは、ネットのAIによれば「周囲の雰囲気や勢いに合わせるのが苦手で、

周りの人が楽しんでいる状況に加われない様子を指します。これは、場の空気を読めない、

または「メリットがない」と考えるなど、周囲との協調性に欠ける…

ということは、著者のいっていることは、

いままで習っていた、教えられていたことを一度は疑ってみる。そしてこれからはみんなが

こうだなと言っていても、みんなが楽しんでいても笑っていても、

そんなもんかと覚めた眼で見ること。

だろうか?

 

「② 自由になる、可能性の余地を開く

もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。

環境依存的に非自由だから、行為ができるのです。

無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要…

有限性とつきあいながら、自由になる

 

(「絶対的な自由」いうものはなく、現実には自由」は《よくいわれるように》必ず、

○○からの自由」であり、○○への自由」というように有限性」と一体となっている)

 

「③ 環境のコード、ノリ

環境における「こうするもんだ」コードとは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」…

ノリとは、環境のコードにノってしまっていること

外から影響されていない「裸の自分」というものはない

自分は環境ノリに乗っ取られている

たいていは、環境ノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、

分析的には意識されていない。…

背後にあるコード=「こうするもんだ」を、退いて客観視することができていません。…

いかなるコードも、特定の環境の「お約束事」にすぎません。

(すなわち「完全な自由はない

その場にいながら距離をとることを考える必要がある。…

それを可能にするのが「言語

 

     


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勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である

 

 真の勉強は、これまでそうだと思い、考え、信じ込んでいたことを疑ってみる。

(極端にいえば)自己破壊

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「哲学」は、日々の「生活」の問題でなく、たまに遭遇する「人生」の一大事には

必要

(「哲学」という言葉が取っつきにくく、良くない)

 

「哲学」的な見方、考えの基本は、ットによると常識や当たり前を疑い

物事の本質を見抜くこと」。

 初めの勉強は、世の中のことは何も知らず、経験もない子ども時代だったので

だ一方的に教えられ、受け入れるだけで、物事の常識や当たり前を疑い…

などできるわけない。

 でも、大人へと成長した私たちはさまざまな人生経験を積んでいるので、

こんどは大人としての、後の勉強しなければならない

(「物分かりがいい」といわれる大人になるためにではなく、

常識や当たり前を疑い…」ができる大人になること。

《だけど私は若いとき、自分の直面した現実の苦労から逃れる言いわけとして

常識や当たり前を疑い…」を都合よく利用した。恥ずかしい…》

 

     


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環境依存的に非自由だから、行為ができる

 

 考えてみればわかるように、私たちは自然であれ、社会であれ常に何らかの

」に「依存」しなければそもそも存在できない。

」に「依存」しているからこそ存在でき、何らかの行為ができる」。

 ということは、環境依存的に非自由」であらざるを得ない。

 

自由」というとき、具体的には○○という(つまりある限定された、有限な)

何らかの行為ができる」ことを意味している。

(引用文に「もし「完全に自由にしてよい」となったら次の行動を決められない」とあるのは

完全に自由」というものはあり得ないので、「もし」と初めに述べられているのだろう)

 

 何らかの行為ができる」ことは、現実の中で有限性とつきあいながら、

自由にな」っているわけなのだ。

(つまり、その「何らかの行為ができる」こと」を妨げる何かに抵抗、克服して、

自由にな」っているわけ)

 

   


ーーーーー

いかなるコードも、特定の環境の「お約束事」にすぎません

 

 こういうときは○○する(すべき)こうするもんだ」コード)というのは

あくまである特定の社会特定の環境お約束事(ルール)

「こうするもんだ」コード》とは「常識」「普通」のこと)

 

 自分がその「常識」「普通」を正しい(つまり「良識」と)信じているなら、

そうすればいいけれど、そうでないのなら疑ってみた方がいい。

(何故ならたいていは、環境ノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている

状態であって、分析的には意識されていない」から。

つまり、「自分は環境ノリに乗っ取られている」。ということは自分が暮らしている社会に

よく言えば「なじんでいる」。

悪く言えば「吞み込まれている」)

 

距離をとること」、「それを可能にするのが「言語」

強く心に響いた。

 

 

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                         ちりとてちん

昔おもふ しぐれ降る夜の 鍋の音  鬼貫

 

 

 




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