前回は哲学カフェでの八つの「哲学対話のルール」を引用・紹介しました。
(ルールを守ってみんなで対話、話し合うことそのものが「哲学する」こと)
今日は、〈哲学の存在意義〉ということです。
① 哲学対話の効用
② 自由のための哲学
③責任のための哲学
④自分のための哲学
(ちなみに次回は最後で「問う・考える・語る・聞く」)
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「〈哲学の存在意義〉
① 哲学対話の効用
自分にとっての「当たり前」を問い直す 見つめ直す
② 自由のための哲学
感覚としての自由
・自由だと感じるか否かが問題
・このように感覚としての自由は、感じているかぎり、存在することが否定できない現実
・考えることで自由になる
(「自由になる」ことは「相対化」すること、「対象化」すること)
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自分の置かれた状況、自分のもっている知識やものの見方から距離をとる
その時私たちは、それまでの自分自身から解き放たれる
自分を縛っていたもの-役割、立場、境遇、常識、固定観念など-がゆるみ、
身動きがとりやすくなる。
他者と共に自由になる
③責任のための哲学
・自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。
だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、
そうであれば、やってことの責任は、本来とれないはずである。
・自分で結果を引き受けるしかない。それは自分の人生だから。
しかし、何ら自分で考えて決めたことのないことの結果は責任がとれない
…
・私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。
また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。
④自分のための哲学
哲学は誰のものか?
・哲学をつねに専門家と物好きだけに独占させておいていいことにはならない。
(専門家と物好きの)「知識」としての哲学と(私たちの)「体験」としての哲学」

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(①と③だけに触れます)
① 哲学対話の効用
「自分にとっての「当たり前」(普通)を問い直す 見つめ直す」ことは
自分を「更新」するということと同じで、とても大切だと思う。
(自分にとっての「当たり前」《普通》は、その多くは社会から来ている。
人は社会の中で暮らしているから当然、その社会の空気を吸っており、マジョリティの空気を
吸わざるを得ない。ということは「当たり前」《普通》)の影響を受けざるを得ない。
《そもそも「吸っている」「影響を受けている」事実さえ気がつかない》
前回の「① (普通、世の中の現実は)何を言ってもいい場はない
世の中には、普通の状態では自由にものを言えなくさせる力がいたるところに働いている」は
そういう現実を指している。
あの戦争が終わって2025年のことしは80年。
いま90歳くらいの人は戦争が終わったとき小学生だったわけだ。屁のように過去となった80年。
1945年8月15日まで、日本国民のほとんどは「当たり前」に天皇を神さまと崇拝し、「当たり前」に
あの戦争を「聖戦」と信じた。
310万人の日本人が死に、侵略によりわからない数のアジアの人々が死んだ。
先の朝ドラ、『アンパンマン』にあの戦争を「聖戦」と信じた軍国婦人の見本のような主人公
「のぶ」の敗戦を知ったときの腑抜けた放心状態。
学校の先生、お父さんお母さんの言葉を信じるほかない、。逆らえば生きてはいけない成長段階の
子どもが信じたのは仕方ないとして、リッパな大人が国の言うことを信じた事実を思うと、
何かを「当たり前」と信じてはならないと強く信じる)

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③責任のための哲学
「自分で結果を引き受けるしかない。それは自分の人生だから」
「自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。
また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない」
二つの言葉を聞くとすぐ、(前に記事でも書いたことあるけれど、「アウシュビッツ」の
ホロコーストからの生還したフランクルの言葉)「人生が生きることを求めている」を
思い出す。
この言葉には本当に衝撃を受けた。
どれほど辛くても、絶望的な苦悩の最中にあっても、フランクルは
自分がそうなった責任を他に求めない。
日本の戦争でいえば、天皇や軍部のせいで、自分、国民一人ひとりにはないとはしない)
それは客観的、科学的な歴史の見方からすれば正しくないけれど、
自分の人生を主語(主体)にするならば、正しい。
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「人生が生きることを求めている」に続けていわれる。
「人は単に生きているのではない
人生が、個々の人間に生きることを求めている
人生はいつも、個々の人間に、
その人にしか実現できない絶対的な意味を託している」
「生きること自体、問われていることにほかなりません
私たちが生きていくということは答えることにほかなりません」

凡の まんなかをゆく 薄原 正木ゆう子