今日は、著者が「哲学は誰にとっても、いつも必要」だと強く実感したという
「哲学カフェ」(ただ考えることが好きなふつうの人たち十数名が輪になって座り語り合う)
での対話のあり方(「哲学対話のルール」)を紹介します。
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「〈哲学対話のルール〉
ルールが対話を哲学的にする
① 何を言ってもいい
② 人の言うことに対して否定的な態度をとらない
③ 発言せず、ただ聞いているだけでもいい
④ お互いに問いかけるようにする
⑤ 知識ではなく、自分の経験にそくして話す
⑥ 話がまとまらなくてもいい
⑦ 意見が変わってもいい
⑧ 分からなくなってもいい

(①~⑤については、それぞれのポイントが説明されます)
① (普通、世の中の現実は)何を言ってもいい場はない
普通の状態では、自由にものを言えなくさせる力がいたるところに働いている…
〈語る自由を奪う教育〉
・自由に考えるためには「何を言ってもいい」ということが必要…
この原則からすると学校は正反対の場所。
・(学校は)選別と序列化によって、秩序を維持し更新するところ
・その場にふさわしいこと、許容されそうなことだけを言う(「空気を読む」大人への育成)
② 否定的な態度をとらない
自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、…何でも言えるようになる。
③ 話さずに聞いている自由
・話したくなければ黙っている自由がなければ、話したいことを話す自由もない。
・聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要
④ 問うことの難しさ
(疑問を感じても)私たちは、できるだけ質問しないようにする。…
人の話は(分からなくても)テキトーにうなずいておけばいい。…
そうやって、いろんなことをうやむやにして、疑問を抱え込み、やりすごすことで、
円滑なコミュニケーションを心がける(要するに「人に合わせる」)…
とりわけ学校では、教えられたことがすべて「分かる」のが目標であり、
質問がないのが理想の状態とされている。…
このように学校では、質問なるものは基本的に歓迎されておらず、
許されている質問もきわめて限られている。…
問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。…
問わないほうがいいということを学ぶなら、結局学校では「考えないこと」を学んでいるのだ。
〈ダイジョウブという魔法の言葉〉
「ダイジョウブ」-これは、自分も相手も嫌な思いをせず、誰も困らず、何の問題もない
ハッピーな世の中にするための魔法の言葉だ。
それと同時に「何も問うことはありません。だから考えません」という思考停止の言葉でもある。
だがいったい、何がどうダイジョウブなのだろうか。
〈知的な安心感とは?〉
知的安心感とは、…「何でも質問していい」ということである。
そうした問いによって、対話は哲学的になる。…
私たちは傷ついた人たちへ、表面的にやさしい言葉をかけて慰めたり、
もっともらしいことだけを言う。
だがそれは、たんに自分が悪者になりたくない、その場を楽しく過ごしたいだけではないのか。…
(本当は)問題をきちんといっしょに考えたほうがずっと傷つかない…
考えないから傷ついた癒えないままになっているのではないか。
一人で考えているから出口が見つからず、ずっと同じところを回って悩み苦しむのではないか。
大切なのはむしろ、互いに恐れず、問題をしっかる受け止め、いっしょに考えることだ。
そのためには問うことができなければいけない。
⑤ 知識ではなく、自分の経験にそくして話す
(私たちはよく)「何でも言っていいのに、言わないほうが悪いんだよ」(というが、これは)
強者の無神経な論理にすぎない。…
他方、経験に基づいて話をすれば、年齢や性別、学歴などにかかわらず、対等に話ができる。
知識を背後にもっているのはかまわないが、ちゃんと理解しているなら、…自分の言葉で、
自分の経験や思いと結びつけたり、身近な例を出したりして話せばいい。
〈開かれた終わりのない対話へ〉
世の中には不毛な話し合いはいくらでもあるが、その原因の一つは、ともかくとりあえず答え、
結論を出さなければいけないという考え方にあるのではないか」

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八つのルールの一つひとつを読むたびに、「ルールが対話を哲学的にする」という
言葉の意味がわかって深くうなずいた。
(引用・紹介が長くなったのでここからの感想は②と④だけにします)
② 否定的な態度をとらない
「自分の言うことをそのまま受け止めてもらえると思えてはじめて、…
何でも言えるようになる」
確かに哲学対話では、「自分の言うことをそのまま受け止めてもらえる」けれど
普通の会話では、簡単、単純な話ならばそうでも、少しでも複雑な話になると
実際には(聞く人の理解、解釈という受け止め方の問題が生じ)「そのまま」は難しい
のではないかと思った。
(対話ならお互いがキャッチボールのようにやり取りできるから、納得するまで話し合える。
だけど普通の「会話」《SNSなど短文の発信も含め》には「早合点」や「誤解」が生じやすい。
私はブログ記事を書いているとき、なるべく誤解が生じないよう、自分の言いたいことが
「そのまま」伝わるよう書くことにともかく気を遣う《その揚句がこれなのですが…》。
誰に伝えるのかということも問題になるけれど、真意を伝えるのはホント難しい)
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しかし、たとえ話す人、発信者の真意が「そのまま」伝わらなくても、
聞く人、受信者に大切なことは「否定的な態度をとらない」ことではなかろうか。
(「否定的な態度をとらない」ことは、人間として絶対的というほど大切な態度だと思う。
世間ではよく、人の「良いところを見つけ」そこに「目を向ける」大切がいわれるけど、
そのことで思い出した。
私はテレビの旅番組が好きなので先日、録画しておいた昔の『バス旅』を見た。
番組レギュラーの旅人《芥川賞作家の》羽田圭介さんがケータイで泊まる宿探しの電話したと
わざわざ自分のことを名乗るのに「芥川賞作家の羽田圭介と申しますが…」と言うので
ちょっと笑ってしまった。
はじめは「芥川賞作家」なんて言う必要ないのにわざわざ言うのは自慢してるみたいに感じられ
《そういう受け取り方、感じ方の自分がイヤになる》「どうかなあ?」と思ったが、すぐ後には
本人はそう名乗るほうが相手にわかってもらいやすいと思ったのかなと思い直し、そのあと最後は
羽田圭介さんのキャラクターというか人柄はちょっと世間馴れしていない真面目で純粋なところが
あるからそれでかなと更に思い直した)

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④ 問うことの難しさ
(買いものをしたとき、「○○ありますか?」と聞くと、《とくにコンビニ》店員さんが
「ダイジョウブです」と答えることがある。
《単に「あります」「ないです」の返答でいいと思うけれど》
「ダイジョウブ」のほうが客を持ち上げ、丁寧な対応しているとの印象を与えるため、
そう返答するよう「お客さま対応マニュアル」にあるのだろうか。
たとえマニュアルにあっても「ダイジョウブです」はオカシイなあと感じたら自分の頭で考え
(問う)てみなければならないと思う。
《もちろん、感じなかったらそれでいいと思うけれど…
それに、このようなコンビニなどで買いものをしたときの「ダイジョウブ」は、
「自分も相手も嫌な思いをせず、…何の問題もない…魔法の言葉」なのでいいと思うけれど…)
でも、(コンビニの買い物はよくても)「ダイジョウブ」なので「何も問うことは
ありません。だから考えません(「思考停止」)」は、どうなんだろう?
(「ダイジョウブ」という言葉を聞くと私は「ガンバル」を連想する。
「いったい、何をどうガンバルのだろうか」
どれだけガンバルのだろう
ガンバリ過ぎて死んでは後悔もできない)

鶺鴒(セキレイ)の とどまり難く 走りけり 虚子