また若松英輔さんの本を読んだ。
『探していたのは どこにでもある 小さな 一つの言葉だった』

(グーグル画像より)
若松さんが心にピーン!ときた、深く届いたいろいろな人の言葉を紹介し、
自分の感じたことを書いておられる。
「どこにでもある 小さな 一つの言葉」
その中からとくに紹介したくて私が選んだ言葉です。
(六つを前後二回に分けました)
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①
「年齢を重ねたせいなのか、かつてのように楽しくなくてもつまらないとは感じなくなった」
「心を打たないものには楽しみも感じにくくなっている」
②
「どう生きるべきかと悩む前に私たちは、
生きるとは何かを考えなくてはならない」
③
「運命は、どこからかやってくるのではない。
人はそれを育みながら生きている。
生きるとは、運命を開花させることである」

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①
「…楽しくなくてもつまらないとは感じなくなった」
「心を打たないものには楽しみも感じにくくなっている」
(《どっちがどっちか忘れましたが》新見南吉と本居宣長の言葉です)
実際に年寄りになると、年取るとはこういうことなのかとよくわかる。
実感する。
(いま自分は老人なので「年寄りになる」「年取る」ことがわかり、実感できるけれども
そのときどきの生きていくこと《生活》に精いっぱいだった若かった頃は、
そのことに追われてばかりで、「老人の自分」は遠い先のこと、そのときは現実的ではなかった。
若い自分には「老人」はしょせん「他人」で、思い考えても仕方がなかった。
だから、その頃「年寄りになる」ことをどう思い考えていたのかうまく思い出せない。
が、それでよいと思う。
《古代インドでは人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分けたという。
自分はいま最後の「遊行期」にあることを痛感している》)
実感①:年を取り、死が身近に感じられるようになった。
時間が経つのが速くなった。
(60頃まではあまり時の経過を意識しなかった気がするけれど、
60代になると時間は「ビューン」と過ぎ去った。
70に入る頃は「ビュン、ビュン」過ぎ去る感じ。
子どものころの時間は『ウサギとカメ』のカメだったのに、いまはウサギになった気がする。
まだ終わってはないけど、一生のうち、カメにもウサギにもなれてありがたい)
実感②:時間そのものと五感を通して入ってくる世界が、
貴重なものとして受け取られるようになった。
(身のまわりのいろいろなものが親しく、愛おしく感じられてくる)
そうなると「楽しくなくてもつまらないとは感じなくな」る。
(つまり、「楽しい」かどうかという価値観は薄れます)
「楽しい」かどうかは気にならなくなる。
(けれども、あえて「楽しい」にこだわってみるなら)
「心を打たないものには楽しみも感じにくくなっている」のは確か。

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②
「どう生きるべきかと悩む前に私たちは、
生きるとは何かを考えなくてはならない」
(まだ40代の若さで亡くなった池田晶子さんという哲学者の言葉)
「どう生きるべきか」という方法、手段に「悩む前に」、
「生きるとは何か」という内容、目的「を考えなくてはならない」という。
(仏教者のひろさちやさんは、ある本で「どう生きるべきか」は「生活の問題」であり、
「生きるとは何か」は「人生の問題」。二つを混同してはならず、しっか考えてみることの
大切さを説いておられたことを思い出した。
《ひろさんは、たとえば「食べる」という生きる基本の営みにおいて、「美味しいものを食べる」
というのは「生活の問題」、「美味しく食べる」というのが「人生の問題」だという》
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③
「運命は、どこからかやってくるのではない。人はそれを育みながら生きている。
生きるとは、運命を開花させることである」
(「偶然と運命について」深く考えた哲学者九鬼周造が思索の中で言及したリルケの言葉です。
「運命を切り拓く」という言い方がされるように、それは生きるなかで、
自分の望むように「育」むことができる。
「育」むことができるが、実際は「人はそれを育みながら生きている」。
人生は「ながら」で、それは過程、プロセスなのだからいつどこで何か災難が
起こり、育もうとしているものが萎れるかも、挫折するかもしれない。
「運命を開花させる」ことができないかもしれない。
それでも、それも「運命」と覚悟できる心を「育」みたい。

倒れたる 案山子の顔の 上に天 西東三鬼