障害者になって先月、19年目を迎えた。
人生も終盤に入っての障害だったこと、それに初めの4年間くらい職場復帰して
働いただけで、後は社会に接触する活動は何もしていないので、「差別」された
思いはほとんどない。
(客観的には「差別」があっても、当人の私が鈍感なためか、「差別された」「被害を受けた」
という思いはなかった。
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これまでもチョコチョコ触れていますが、あらためて私の障害を詳しく書きます。
①体全部の重さが足裏へ集中している感覚がある。体全体にかかっている地球の引力を感じる。
自分の体重が力士並みに重いと感じる。
座位から立ち上がるのが難しく、必ずそばのコタツ、ローボードなど低い台に手を突く。
②体が揺れてフワフワしている感覚がいつもあり、放っておくと倒れそうなので意識して
シャンとしなければならない《で、疲れる》。
歩こうとしてもまっすぐには進めず、杖を突くか手すり、壁や柱で体を支える。
③主な障害は①②のような体幹の「平衡障害」によるけれど、目の障害が伴っている。
目玉が勝手《不定期》に揺れる生理現象「眼振」がある(揺れると気分が悪い)。
一つの像が複数見える「複視」という生理現象も。
④吃音《どもり》、嚥下障害。

自分の障害を「もっと重かったら」《反対に「軽かったら」》と想像してみる。
また、もともと「障害を負わなかったら」と想像してみる。
想像そのものは障害に限らず、自分の人生で起きるさまざまな出来事、出あいにもできる。
《ずっと前の記事に脳学者茂木健一郎さんの本の感想を書いた。
それは、いまの自分はこうだが違っていた「かもしれない」、他であった「かもしれない」と
いまの自分とは違う姿を想像してみる、相対化してみることの大切さの話だった》
「かもしれない」を自分の障害に当てはめると、
もっと重かったかもしれない。軽く済んでよかったと思い、感謝の念が湧く。
《眼振や複視はあっても目は見える、片方の内耳は潰れて機能しないけれど、片方は大丈夫。
走ることはできないけれど杖があれば歩ける》
軽く済んだことを「不幸中の幸い」と思い、障害の原因となった事故との遭遇自体は「不幸」でも
この程度ですんだと「幸い」を感じる。
ではあるけれど、
最近読んだ仏教者ひろさちやさんの『こだわりを捨てる般若心経』では、仏教を信ずる者は
そういうこだわり、つまり「かもしれない」と想像すること自体をやめなさいといわれる。
つまり、「あんたはそういう状態の障害者になった。それでいいではないか」と、
じつに「身も蓋もない」言い方だった《ちょっと腹が立った》。
「他と比較してグダグダ思う、悩むのはやめよう」と。
漫画のバカボンパパが最後に言う決めゼリフ、「これでいいのダ!」が仏教の心だとおっしゃる。
《これについてはまた今度書いてみます》)

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『障害者差別を問い直す』 荒井裕樹 著

(グーグル画像より)
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帯にあるように「差別はいけない」理由、何でいけないのかというわけを
ちゃんと言う、説明することの大切さを強く感じた。
本でいう「障害者差別」とは、社会による「差別」、「社会的差別」のこと。
(「社会」というとは抽象的だけど、具体的・リアルな「個人」「個人」から成っている。
その個々の人々の大半はやさしい《私も障害者となってよく親切を受け、その方の背中に向かい
手を合わせたこともある》。
だが、個々の人の具体的な善意が満ちあふれるほどでも、社会はそれらが単純に集まり
差別のない平等な社会にはならない。
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一人ひとりを見ればいい人と思えるのに、集まる《社会を形成する》と何でこうなんだろう?
と思うことがよくある。
これまで読んだ本からいえば、
とてつもなく長い狩猟採集時代はみなが生き延びるために「平等」でなくてはならなかった。
しかし、生産力が増加して、みんなが食えるようになっても《実際は天候不順などでそんなこと
ない》余剰なものを独占する者が現われ、支配‐被支配という社会関係が生まれる。
そもそも支配‐被支配という社会関係自体が「差別」で、否応なくそういう現実を認めることが
人々が生き延びるための必要な戦略となった。
人類の歴史はどこでもいつでも華やかな文化・文明の花開いたところは、王侯貴族と民・奴隷、
差別者・被差別者の社会関係が見られる。
《『世界遺産』で文化遺産を見れば一目瞭然。私はいつもため息をつく》

歴史が進んでいまになり、やっと支配者《「差別者」》は、被支配者《「被差別者」》の人権、利益を
尊重しなければ、つまりは長生きさせなくては自らの生存自体も危ぶまれるので、許容の範囲内
という条件付きながも富の分配を工夫・配慮しなければならなくなった。
《「格差」は拡大する一方なのも現実。しかし、多くの人々がスマホを有すくらいは「豊か」に
なったのも現実。どちらも現実なのだ》。
社会の「下部構造」《経済》が「上部構造」《社会・政治・文化や文明》を支配する、
決定的な影響を及ぼすというマルクス主義の真実は、いまの時代も変わらない。
経済が進んだ現代になり、やっと《人口の半分》女性への「差別」ばかりでなく、
障害者など社会的弱者、マイノリティへの「差別」が注目されるようになった。
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「差別」を考えるとき、先ず《自分はもちろん》誰の心にも差別する部分があることを
認めなくてはいけないと思う。
「私は差別なんかしていない」と主観的には思っていても、生きている社会が「差別」の上に
成り立っている限り、客観的にはあり得ないと、私は思う。
歴史的に差別のない平等社会、狩猟採集時代が途方もないほど長く続いたから「人間みな平等」が
ほとんどの人にはあると思うけれど、あっという間の短い歴史しかなくても、「差別」という言葉は
使わなくとも、「競争」とその結果が社会を発展させた、押し進めた見方もできるわけで、
心に差別のない状態は、社会がいまのままでは決して生まれない)
肝心の本の紹介に入る前に、障害者差別への自分の思い、考えを書きました。
次回、本のことを書きます。

気がつけば 冥途に水を 打ってゐし 飯島晴子