今日は「私にとっての介護」の終わり、④から⑥を書くつもりでしたが、
前の記事の終わり、「最近、気になる話を知った。知って少し冷や汗をかいた。
社会の安定維持に《「重荷」となる》老人が増えることはよくない
《もちろんそういう社会にとっては》ので、生産性のない老人は
一定の年齢になれば死んでもらうという、現代の「姥捨て」
のような話)」
のことを書くことにしました。

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少し前に、BSNHKの「プレミアムシネマ」で録画しておいた映画を見た。
「気になる話」というのはそれ。
映画の名は『プラン75』。
(ぜひともネット検索してください)
検索すると、ある映画紹介欄には、
「超高齢化が進んだ近未来の日本で、75歳以上の高齢者が自らの生死を選択できる制度
<プラン75>が施行される。
夫と死別した78歳のミチはある日、高齢を理由に仕事を突然解雇され、住む家も失いそうに
なってしまい、<プラン75>の申請を考えるが…」とあります。
また、この映画を作った早川千絵監督は、
「生きづらい人に対して死の選択肢を差し出すような社会と、
共に生きようと手を差し伸べる社会と、どちらに生きたいか。
私は後者を望んでいます」
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近未来の日本で高齢者対策として新設された制度〈プラン75〉は、
「高齢者が自らの生死を選択できる」、つまり自己選択が可能ということで、
正確には、私が書いた「生産性のない老人は一定の年齢になれば死んでもらうという」
ものではありません。
(国、社会の側に強制力があるような言い方をし、ほんとうにすみませんでした)
しかし私は、逆境にもめげないような、ドラマの主人公みたいな、しっかりした
人生観と意志を持った人間でなければ(観念だけの人生観はエラそうに御託を並べても
ヘタレの私みたいな意志の弱い人間は、楽《ラク》な方向に流されがちなので)、
もっと生きたくても死を選ばなければならなくなるように、
国や社会が追い込んでいると思う。
(<プラン75>は75歳以上になれば、自ら選択さえすれば国や社会が苦しまなくてすむよう
ラクに、眠るよう死なせてくれるのだそうだ。
《そうはいっても安楽かどうかは死を経験してみなくてはわからん気がしますけど…》
ともかく、この制度は前提として「安楽死」が認められた社会でなければならない。
というか、<プラン75>そのものが安楽死の実行)
しかし、国や社会の側としては権力で「あなたは75歳以上になったので
死ななければいけません」と死を強制しているわけではないし、
国民の皆さまが死を(「自殺」じゃなく)「自己選択」、つまり自主的に選んで
死んでくださるわけだから、(国や社会の側はあくまでも「死の手伝い」をさせて
もらっているわけだから)死んでいく国民に対する責任はない。
(あるとすれば、憲法25条の「健康で文化的な…」は国、社会の「努力目標」であって、
努力が達成されないからといって責任が追及されるわけではない、と国・社会の側は仰せられる。
国民が自分で選び、国や社会の責任は問われないで、高齢者対策になっている。
<プラン75>は実に都合がいい制度)

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「安楽死」という自己選択の死。
国は本来、「共に生きようと手を差し伸べる社会」を目指さなければならない。
なのに、そのいちばん大事な国家の義務を「努力目標」「努力義務」という
体裁の問題に貶め、国民がより良い国、社会をつくろうという意欲をそぎ、
諦めさせるために、最終的な個人の人生における最大のイベント、「死」を用意し
一人ひとりに訴える「安楽死」という方法を考えた。
そして、高齢者対策という具体策に活かす。
自分はそれを望んでいるんだ(と自己暗示をかけるような)詐欺まがいの〈プラン75〉
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私は死ぬときは安楽に逝きたいけど、「安楽死」なんかしたくない。
できるだけ長く生きたい!
私たちはヒトという生きものだ。
できるだけ長く生きたい!
この映画を作った早川千絵監督の、
「生きづらい人に対して死の選択肢を差し出すような社会と、
共に生きようと手を差し伸べる社会と、どちらに生きたいか。
私は後者を望んでいます」を嚙みしめた。

爺々(ジィジィ)と 蝉にいはるる までもなし 辻田克己