最後の今日は、③最初にあるのまず他者との関係性
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「そのように身体をもって人前に登場せざるをえない存在は、まさにそのゆえに、
そもそもの最初から共同的なのである。…
人間は最初からその身体そのものにおいて本源的に共同的であるということである」
「〈関係性から生まれ、関係性に囚われた「私」〉
自我という実体があるのではない
(「私」と「あなた」の関係ということについて著者はいう)「私」は「あなた」あっての私であり
その関係ぬきに成り立たないものであることは、日常的な感覚においても十分に確かめうる…
「私」は他者との関係から独立した実体的な存在ではありえない。
…
〈能動-受動〉
「私」には〈能動-受動〉の二つの契機がからみあっている。
人を外から客観的に観察しようとする心理学の枠組みのなかでは、とかく外から観察可能な〈能動〉
の契機のみが取り出されやすい。
しかし私たちが内側から生きている「私」においては〈能動〉より
むしろ〈受動〉が前面に意識されることの方が多い。
私たちはなにかを〈する〉とき、そもそも〈する〉の側の自分は目に入らない。
端的に言って、自分自身が自分の視覚的視野にはおさまらない。
なにかをやっているそのときの自分の顔は自分に見えない。
→(著者は「図と地)」の関係を用いれば、当事者にとっては〈する〉という〈能動〉は地、
〈される〉という〈受動〉が図となるという。
これも著者がいうように「夢でも誰かから〈される〉というのが圧倒的に多い」)」

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発達心理学者としての著者が、本を通していちばん述べたいことは、
このこと、「最初にあるのまず他者との関係性」だと思った。
(引用したところの初めの「」は本の初め、後の「」は中ごろと終わりの方です。
みんな、「ヒト」「人間」という実体がそれだけで存在するわけではない。
元から他の「ヒト」「人間」 との関わりにおいてのみ、ある「ヒト」「人間」が存在するのだ。
だから「私」の存在には絶えず他人との関係が前提になっており、
「「私」には〈能動-受動〉の二つの契機がからみあっている」わけだ。
《上には引用していないが》「普通、発達心理学では成長・発達にしたがって社会性・共同性を
獲得していくというが」との一文があり、著者は一貫して「ヒト」「人間」を「本源的に共同的」
「他者との関係から独立した実体的な存在ではありえない 」
私には「〈能動-受動〉の二つの契機がからみあっている」という。
「生きる」ということは自分という主体が「生きる」ことなので、普通、〈能動〉が重視されるが、
著者は「私たちが内側から生きている「私」においては〈能動〉よりむしろ〈受動〉が
前面に意識されることの方が多い」という)
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よく「生かされている」という。
(6.13の記事「人生を独り占め」で書きました。
ある女性が人生に悩み、死のうとして山に入ったところ、主人公の山小屋の人たちの
人としての本当の優しさに救われた物語。
その女性は自分の力で《主体的に》生きて、ここまで人生を拓いてきたと思っていたけど、
まったくの「思い違い」「錯覚」「幻想」に過ぎなかったことに気づいた)
「生きる」という言い方も大切だけど、時々は「生かされている」と言ってみる、
ことも大事だと強く思った。
人生での数々の物事の出会い、遭遇は、自分で選ぶ(それさえ神さまの視点から、
メタな立場から見れば、「選ばされた」といえる)こともあるけれど、与えられた、起こった
物事を受けとめるのに必死だ。
(ある意味ではそれを人生といってもいいように思った)

夕立が 門より入って 来たりけり 大串 章