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2025.7.25 思い込みを取り去る

 今日は②「思い込みを取り去る」です。

 

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思い込みを取り去る

「ことばがなぜしゃべれないのか」という問い

(言葉をうまくしゃべれない人たちがいるという現実、事実がある。

私たちは、「誰でもしゃべれる」という「思い込みを取り去」ってみなければならない)

しゃべれるのが当たり前というこの私たちの日常的な感じ方にどれだけの根拠があるのだろうか。

むしろこの感じ方自体、私たちが完態(生物学的な意味でできあがってしまった状態)にすでに

ながくどっぷり浸かってきた結果なのではないか。

障害をもたないおとなたちは、ふだんそれと意識することなくことばをしゃべり、また聞いている。

私たちはなぜことばがしゃべれるのか

ゼロからの視点(に立ってみなければならない 「思い込みを取り去てみなければならない)

現実のものとしてある奇跡

外のものを外のものとして見る、…聞く、触れるというのは、世界を生きる出発点…

ただの物質にすぎない脳には、〈内〉とか〈外〉とかいう心的現象の入る余地はない。

そうしてみると、なぜかはよくわからないけれども現にそうなってしまっていること、

そういうこと私たちの世界の欠かすべからず契機になっているのである。…

それは私たちにとって言わば奇跡みたいなもの。…

世界が広がっていかない子どもたちがいるとすればせめてこの不思議の部分に問題があるのだ

という視点ぐらいはもたねばならない。

こうした視点に立つことで、少なくとも私たちとこの子どもたちとのあいだにあらたな関係が

広がっていく。

「私」とは何か

(「生きる」や「人間」ということを)いったんゼロにまで引き戻してみると、私たちはほんとうに

不思議な生き方をしている。もちろんそれは人間にかぎらないが、不思議と気がつくことで、

私たちをめぐる現象の見え方がずいぶん違ってくる。…

「私」というものの形成されにくい人たちも当然いることになる。…

さまざまな人、さまざまな子どもと出会ってみれば、「私」の成り立ちにくさをかかえた一群の人々に、

私たちは目を向けないわけにはいかないのである。…

このように人はゼロからはじまり、またやがてゼロに帰すと見ることで、

私たちは「私」のいまの在り方を自明とするのではなく

種々の条件のもとでいろいろな在り方をしているうちのひとつとして位置づけることができる。…

ある障害者は、その人にとっての当たり前がある…

(私は)私の側の「当たり前」をいったん括弧にいれておかなければならない

 

      


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(引用文は抽象的ですが、それらを裏付ける具体的な内容は《引用文はなるべく少なくしたいから》

上に掲げていません。

著者の専門は発達心理学。本では他の発達心理の話、理論がいっぱい出てきました。

が、私は、著者のいちばん大事な基本的な人間観にすごく共感するので、それがわかるところだけ

《抽象的な文、言い回しのところ》を引用しました。

専門的な話にご興味あることは是非とも本をお読みください)

 

 三つの〈〉に分けて引用したけれど、すべて「思い込みを取り去る

 「ゼロからの視点に立ってみなければならないということ。

 

 著者は人間の「発達」を考える中で、これまでの発達心理学理論で当たり前の

ようにいわれてきた「発達段階論」到達すべき発達像《完態」という大人像》に向かって

進む、発達していく)それ自体は肯定しても、「社会(他者との関係)の中で生きる

という基本的なところからの視点を大事にする。

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 個人的な差はあってもおおかたの人は言葉をしゃべれる発達段階になると、

しゃべれるようになる。だが、障害児のようにしゃべられない人も出てくる。

 

 しゃべれることは当り前のように思われるけれど、思い込みを取り去」って

 「ゼロからの視点に立ってみ」れば、著者のいう通り「しゃべれること」は

(同じようにしゃべられないこと」も)奇跡みたいなもの」である感じがしてきた。

 

(もちろん、しゃべれること」は脳科学など最新科学により科学的、合理的に解明されるが、

問題はそういうことではない。

当たり前」と思っている、信じていることを受け取るときの態度、気持ち。

それが「生きること」につながる。

 

科学的には明らかではあっても、人生は「なぜかはよくわからないけれど、

現にそうなってしまっていることがいっぱいだ。

その不思議を感じる心の大切さを私は強くつよく感じた。

 

いまの自分を見ると、「「私」のいまの在り方を自明とするのではなく種々の条件のもとで

いろいろな在り方をしているうちのひとつとして位置づけることができる。…

ある障害者は、その人にとっての当たり前がある…

 

 最後の「私の側の「当たり前」をいったん括弧にいれておかなければならない

強く胸に響いた。

 

 

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                        ちりとてちん

パナマ帽 散髪に行く だけのこと  安里道子

 

 

 




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