今日は残りの③と④です。
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③「噂と評判
私たちは情報の内容を憶えるのは得意だが、出どころを憶えるのは不得意だという事実
→(「噂を信じて行動しやすい理由」になっていると著者はいう。
そのわけは、人類史の「一万年前」までの途方もなく長い狩猟採集時代では一人ひとり見分けのつく
小さな集団で暮らしていたから、情報の真偽は確かめるのが簡単で、ウソをつくと信頼されない。
仲間はずれにされ、生きていけなくなるから情報は事実に基づいていた。
現代の日本のように、「それが事実か否か?」が問題にされることはなかった)
一万年前以降、集団の人口が増加し、人間の個別理解に代わる協力の方法が必要となった。
(この頃「文字の発明」があり、そのうち「制度や契約」も登場し、ウソやごまかし、詐欺を
はたらきやすくなった。
人にウソついても騙しても、生きられるようになった。
「生きられる」どころか、かえって権力、富を得やすくなった)
…
「他者の話を疑わない」という進化的特性から、…(いまの人は)懐疑的思考が苦手になっている
→(つまり、「一万年前」までの狩猟採集時代のなかの途方もなく長い時間経過を経て、
「他者の話を疑わない」というのは人類の遺伝的なレベルの性向《進化的特性》となっている。
著者は、詐欺被害の多い現代こそ「「懐疑の精神」が必要」といい、そのために「反対側に注目」
しなければならないと説く→「得をする」と言われたら「損をする」というふうに)
④「コントロール欲求
(たとえば)雨乞いを続けるといつかは雨が降り、雨乞いが確証される。…(しかし)
とことん日照りが続きになれば、集団は絶滅し、雨乞いが失敗であったと知る人はいなくなってしまう
→雨乞いは必ず「成功する」のだ」

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③ 噂と評判
初めに著者は、SNSの「炎上」のような、ある情報が一瞬にして広がる現象、
社会伝達がなぜ起きるか?と問う。
「情報の内容を憶えるのは得意だが、出どころを憶えるのは不得意…」
つまり、その情報が確かな「出どころ」からなものなのか?という信ぴょう性を
一度も疑ってみることなく、単純に人(出どころ)を信用し、(多くの人が所有の)
スマホという道具でいとも簡単に不特定の人々に宛てて伝えられる。
(ちょっと考えてみれば非常に恐ろしいことがわかる)
一度は疑い、信じていい情報かどうかを確かめなければならない。
(「面白い」「笑える」とか「可愛い」など人畜無害なものだけではなく、偏見やデマによって
人を貶める、社会的に重大な悪影響を及ぼすものも多い。
発信する人、拡散する人も、ホントはその情報の出どころを調べて真偽の確認をしなければならないと
わかってはいても、スマホ・ネットの便利快適、迅速スピードに慣れてしまった私たちは、いちいち
真偽の確認をしているヒマはない、というのも「ホント」だと思う。
だから、ある情報の真偽はどうでもよく、刺激的で面白ければ拡散してしまうのだろうか?
私は「人を見たら泥棒…」というほどは疑わないけど、得する話、うまい話は1完全に疑う。
《「うまい話」だけではなく、ボケたら仕方ないけど、自分に身の憶えがあることはわかるので、
「役所から…」「警察から…」などとの詐欺にも絶対引っかからない自信がある。
けれど、前にも書いた『それ詐欺やで』という地域ニュースでは先日、「警察から…」に騙された医者が
出演されていた。その方は私のような者でも詐欺被害に遭ったと善意での出演だったが、その方に私は
心無いことを思った《ホントは「お気の毒でした」と同情すべきだった》
上の引用には挙げなかったけれど、「出どころ」を確かめない噂は「マイノリティに対する偏見」という
「誤信念」を生み、「社会的な問題」にもなると著者は警告する。
自分の身の周りに日常的によく付き合うマイノリティが存在し、彼らの実態、事実を知らない限り、
関東大震災のときの朝鮮の人たちに対する虐殺のような、日常では考えられない、想像できないような
ことを、人間は犯してしまう危険があることをよく自覚しておかなければならないと痛感した。
「マイノリティ」だけの問題ではなく、ナチスのこともルワンダのことも…。
日本の戦争のときも「鬼畜米英」という「誤信念」、「八紘一宇」という「誤信念」、「必勝」という
「誤信念」などがなければ、23日に慰霊の日を迎えた悲劇の沖縄戦が歴史に残ることはなかった
「反対側に注目」は、身近な具体的な話としてわかりやすく述べられていて
とても面白かった。
(紹介されていた一つの話 → 宝くじ売り場では当選確率が「他よりいい」と宣伝するため
「1億円が当売り場で出ました」の看板をよく掲げる。
けれど同時に、買う側の私たちは落選するという反対の確率も、「他よりいい」ことも見なければ
ならない)

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④ 予測 将来の危機を過小評価する心の働き
〈コントロール欲求〉
雨乞いの話は面白かった。 続ければいつかは雨が降る。
その「いつか」の前に、日照りでみんな死んだら雨乞いの祈りは失敗に終わった
ということだが、その事実を後に伝える人はすでに誰もいない。
(祈りは天に届かなったのだ)
しかし、死ななかった人がいる限り、「雨乞いは必ず「成功する」」。
この話で私は思った。
何かの事実があったことを見た、目撃した者がいて、なおかつ、語るにしろ
文字に残すにしろ、「伝える」ということしなければ、
その何かの事実は「無かった」「存在しなかった」ことになってしまうことを。
(初めは「恐ろしい」ことだと思ったが、後から人間は全能の神さまじゃないので「仕方ないか」と
思い直した)
それにしても、伝えられなかった事実が、「歴史」とならなかった出来事が、
過去にはいっぱい起きた、あったのだろう。

扇風機 大きな翼 やすめたり 山口誓子