前に東畑開人さんという臨床心理士の方の『居るのはつらいよ』を書いたが、
とてもおもしろかったので、またこの人のものを読んだ。
こんどは、『野の医者は笑う-心の治療とは何か?』 という。

(「グーグル画像」より)
「野の医者」とは、心の治療をする(というより「癒やす」)沖縄の民間では広く
おられる「傷ついた心を療法する」人たちのこと。
(沖縄県は1972年5月15日に返還《本土復帰》されたが、在日米軍基地の多くが沖縄にあり貧しい
(ネットによれば「沖縄県の貧困は、親の低収入、収入の不安定さ、高い生活コストそして
離婚率の高さなどが複合的に影響している…ひとり親家庭が多い…貧困の悪循環が深刻化」
貧困が多くの県民に生きづらさ、悩みを生み出し、他の都道府県では見らないほどのいろいろな
心の癒やし療法が商売として成り立っている。
《そういう事実を知って驚いた》
やり方は違ってもみんな民間療法。「科学的」《=西洋的》ではないのでエビデンスはない。
要は効けば《効いた気がしたら》いいわけだ)
著者がその人たちを訪ね歩いて見聞きし、感じ思い考えたことを書いたもの。
心という得体の知れないものを相手にすることでは同じ商売の著者の専門の
(科学的だとされている)臨床心理と、「野の医者」たちのいろいろな民間療法と
どこが違うのか?
(いちおう著者にとっての臨床心理はアイデンティティでもあるので、「野の医者」たちとの違いを
ハッキリさせようと「必死」に調査研究した。
著者はいい意味で現代風の若者ですが、人間としても臨床心理士としても誠実でもあるのでとことん
悩みます。
以下、本の進行に沿って述べられていた《私が深くうなずいた》ことを便宜的に①~⑧に分けて
引用・紹介し、後に感想を書きます。今日は①から④)
ーーーーーーーーーー
① (初めに著者は言う)「〈野の医者の医療人類学について〉
私たちが当たり前だと思っている近代医学だって、違う文化の人が見れば何やら怪しいものに
見えてくる…。治療を科学現象ではなく、文化現象として見るのが医療人類学だ。…
注射を受けたという事実が、魔術のように体を癒していると言える。
→(偽薬の効果を「プラセボ効果」というけれど、「臨床心理学も同じメカニズムを使って
治療しているではないだろうか」」
② 「野の医者たちは自分が病み、癒やされた経験から得たものを今病んでいる人に提供している…
自分を癒やしたもので、人を癒やす。そして人を癒やすことで、自分自身が癒される
(このような「伝統的な「癒やしの文化」」の担い手たちを、臨床心理の創始者の一人、
ユングは「傷ついた治療者」といった)」
③ 「〈なぜ、沖縄には野の医者が多いのか-ブリコラージュ〉
治療は文化によって変わってくる。
何が病気とされ、何が治療とされ、誰が治療者で誰が病者なのか、そういうことが文化によって
まったく違う。文化が治療のあり方を決めるのだ。…
沖縄の文化には、野の医者を生み出すような装置がセッティングされているのではないか。
→(ブリコラージュとは「既存の部品や材料を寄せ集めて、その場で手に入るもので物を作ったり、
問題を解決したりする際に用いられる考え方や行動」とネットにはあります。
野の医者はそれぞれが心の癒し療法を、自分の周りからブリコラージュのように生み出す)
…
野の医者の知性は、「野生の思考」なのだ。
彼らは手持ちのものは何でも使う。使われる材料は、何も伝統的なものでなくてもいい。
…
もしかしたら、心の治療って、実はブリコラージュそのものなのかもしれない。
…
だから、臨床心理学も今はレシピ作りに忙しい。科学になろうと頑張っている。…
心自体が捉えどころのない、野生そのものだから
→(「臨床心理士も野生の思考」で治療を行っているのではないだろうか」と著者は自分を疑い悩む。
そしてある野の医者から
「信頼だよ。相手がこっちを信じるか、信頼できるか。どんな治療もそれじゃない?」
と言われてしょげる)」
④ 「〈魅惑の占い師たち〉
(現代は流行のように「エビデンス」という言葉が繁盛。
「科学的な用語を使われると、ついありがたくなってしまうのは、私たちが科学教の忠実な信徒
だからだろう」
「私たちは科学を信仰する世の中に生きているから、それら《科学的説明など》を
いかがわしくは感じない」
このように、私たちは「科学にどっぷり」状態にあるのに、そのことに気づかないと著者は言い、
「表面的な違いを取り去ってしまえば、実は私たちも野の医者も同じメカニズムにのっとって
治療を行っているのではないだろうか」と述べる。
《〈魅惑の占い師たち〉を含む》野の医者たちは、患者のほとんどが治ったという
「ミラクル・ストーリーを語る…
そして「ミラクル・ストーリーを語る」こと自体が彼らの「医療」《癒やし》技術で、
治療においていちばん大切な「信頼」を生みだす)
とすると、ミラクル・ストーリーを語ること自体が、すでにテクニックのひとつだと言える。
…
(要は、いちばん大切なことは「信頼」なのだ。
ある意味で、人が生きるということは、人との間にどれだけどのような信頼関係を築きあげるか
ということでもあるといえる。
野の医者の言う)悪い血が溜まっているのがレトリックであるのと同じくらい(臨床心理士の言う)
無意識の抑圧がレトリックであったら…
唯一無二の真理などどこにもなくて、あるのは生きている人間の数だけの解釈なのだ(という
「ポストモダン」的な発想もある)
すべてがレトリックに過ぎないという発想」

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信じるということ、「信頼」が人が生きるなかで果たす役割の大きさのすごさを
痛感する!
まさに「鰯の頭も信心から」。
(思春期のころ、”死”が怖くて仕方ないので独自の信仰対象《何かは恥ずかしいので言わないけれど
神仏ではありません》を作って心にイメージし、それに合わせた独自のオマジナイを心で唱えた。
他人からしたらバカみたいだけど、似たようなことは誰にもありそう)
ーーー
「私たちが当たり前だと思っている近代医学だって、違う文化の人が見れば
何やら怪しいものに見えてくる」のだ。
私も現代の”近代医療”とは無縁、シャーマニズムが信じられている部族社会に
生きていたら…と想像した。
「治療」ではないけれど、現代の日本でも、地域の祭礼行事で○○だったら豊作
■■なら不作という占いがされる。
(個人的にも、古くからの神社でのおみくじや現代的な星占いなどが行われる)
私たちは一方では(④でいうような)「科学教の忠実な信徒」でもあるけれども、
人生では「何で私が…」というウン不運、ガチャの問題は不可避であり、
それをどう受け入れるかという文化的、文学的な存在でもある。
(「人生観」「世界観」も文化だと私は思う。
入院していたとき、主治医が信頼、尊敬できる人であったら、その医師の医学専門家としての力量が
足りなくてもかまわないと思うことがあった。以降、そのことも人生観の一つになった。
「信頼」「尊敬」も「プラセボ効果」の一つかと思われる。
「臨床心理学も同じメカニズムを使って治療しているではないだろうか」に座布団一枚!)
「信頼だよ。相手がこっちを信じるか、信頼できるか。
どんな治療もそれじゃない?」

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もちろん「信頼」も「幸福」「幸せ」と同じように個人の主観的なもので、
科学のような誰にでも当てはまるものではない。
けれど、幸せと感じられない科学の進歩や発展は「お断り!」と言いたい。
けれど、個人的には幸せと感じられなくても社会的には…
むずかしい。

あんぱんを 買つて花野へ 行く途中 栗山政子