(先に書いた若松英輔さんのフランクルの言葉)それより先にフランクル自身の本で
知って感動したけれど、いつの間にか忘れていたのを思い出させてくれた。
(「感動」して忘れるとは、それほど感動しなかったということだろうか。
いや、人間は「忘れる」動物という。
「感動」したことさえも忘れる)
若松さんが他の著作でもフランクルのことを述べている本を見つけて読んだ。
『生きる哲学』 という。

(グーグル画像より)
(終わりの「伝える フランクルが問う人生の意味 人格は侵されない」だけ書きます)
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「〈伝える フランクルが問う人生の意味 人格は侵されない-フランクルの哲学〉
古典は歴史的であると同時に、いつも今日的である。…
古典は常に「共時的」現象として読者の前に顕われる。…
今に深く根を下ろしながら、時間とは異なる、過ぎゆかないもう一つの「時」の次元にふれること…
ファシズムが滅ぼそうとしたのは肉体ではない。…「人格」である。…
それは人間が人間として在ることの根源的理由である。
人格に優劣はない。…この不可視な実在が肉体を包んでいる。
存在の次元においては、肉体もまた、優劣を測ることの埒外にある。
人生が生きることを求めている
絶対的条件においても朽ちることのない人格の勝利である。
人格の存在は、あらゆる差別の根拠となる思想を打ち砕く。
人は、単に生きているのではない。生きることを人生に求められて存在している。
人生が、個々の人間に生きることを求めている。
人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を託している。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくということは答えることにほかなりません。
時間的なもの、日常的なものは、有限なものが無限なものにたえず出会う場所なのです」

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日々の、目の前の生活世界を無事に過ごしていくこと、送っていくことが
誰にとっても具体的で現実的な、「生きているということ」の中身。
人生でいちばん大切な、大事なこと。
(しかし、国家という社会が「目の前の生活世界」、つまり当たり前の日常を強制力で奪うとき、
フランクルのように極限、命まで軽々と奪われようとしたとき、自分ならどうするだろう?
《いや、「どうする?」と考えることなく、ただただ無力感に襲われるに違いない》
ホロコースト、アウシュビッツのような大惨劇は、現代の人間の尊厳が謳われる世の中では、
起きないかもしれないが、
自分の人生では、「どうする?」と深刻にならざるを得ない悲しいことは起きる可能性が大きい)
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「人は、単に生きているのではない。
生きることを人生に求められて存在している。
人生が、個々の人間に生きることを求めている。
人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を
託している。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくということは答えることにほかなりません」

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自殺。
(自ら命を絶つ人が出るほど絶望的な状況の中でも、フランクルは生き延びた。自殺はしなかった)
「生きることを人生に求められて存在している」から、自殺はいけないと。
生まれることは「ガチャ」みたいなもので、受身の偶然という他ない。
(そういうことで思い出すものに、若いころ知った「誕生」をうたった詩が忘れられません。
吉野弘という現代詩人の散文詩「I was born」です《詩そのものはネット検索してみてください》
そのネットには「I was bornの題名に込められた思いは?」に「 「生まれる」、誕生するという
出来事は、母の体という場 で起きている、人称を超えた奇跡的な出来事なのだということが、
この詩を貫い ているメッセージなのだと言えるかもしれません」とありました)
まったく、意志的なものはない、能動性、主体性といわれるものはない。
「誕生」はただひたすらに受け身であり、偶然、ウンに身を任せている。
ほとんどの人は「自分の人生は自分だけもの」と思っている。
(私もそう思っている)
だから、命を終えるときくらい、死という最後は自分で決めたい、選びたいと
自殺を「肯定する」考えが出てくるのだろう。
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(私自身は自殺したいと思うほどの苦悩を味わったことがないからかもしれないが、
自殺念慮という経験はない。
だから、本当のところはわからない。
わからないけれど、想像する)
人は自殺するとき、「自殺モード」というべき精神状態にあり、
それしか心にはないのだと思う。
自分で死ぬという選択肢しかないことは、選択肢が一つということは、
自分で選ぶということはあり得ない。
だとすれば、選択肢が一つしかないということは選びようがないと同じ。
つまり、自分で死ぬなんてあり得ない。
その人を死に追い込んでいるのは「死神」というようなものだろうか。
(「死神」は社会や人生の絶望的な辛さ、苦悩が原因だけど、
「人は、単に生きているのではない。生きることを人生に求められて存在している。
人生が、個々の人間に生きることを求めている。
人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を託している」)
自殺してはいけない。

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生まれときから重い障害を負っていたり、生きる中で後天的に重い病気で
死んだり、ケガして障害を負ったり、突然の災害に遭って命を失う。
普通に生きたくても生きられない。普通に死にたくても死ねない。
そういうことを私たちは想像できる。
ひょっとしたら(ウン悪く)自分がその当事者になっていたかもしれない、と。
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誕生のそのときから始まる人生も、ある意味ではすべて「偶然まかせ」。
(その「偶然」が《自分にとって》「いいウン」になるか「よくないウン」になるかは自分の主体性
生き方にかかっているのだろう)
いまのあり様はただの「偶然」。いまのあり様は他であったかもしれない、
と想像できる。想像しなくてはいけない。
(自殺は人間以外の生きものはしない。 それが生命あるものの本能だと思う。
「想像」《「想像力」》できるのは人間だけ。それも人間の本能《正確な定義からいえば違う》
と呼んでいいのではと思った)
「自分の人生は自分だけもの」だが、私たち一人ひとりは
「生きることを人生に求められて存在している」ので、
「人生はいつも、個々の人間に、その人にしか実現できない絶対的な意味を
託している」
何度もなんども深くうなずいた。
