やっと本の紹介です。
強く感じた四つのことだけ書きます。
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① 〈アイデンティティからシティズンシップへ〉
ひとびとは、自分は本当に差別していないか、と省みることなく、差別者を批判している。
…
「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」とはマイノリティがマジョリティにたいして
しばしば非難の意味を込めて向ける抗議であり、論理である。
…
アイデンティティをそう簡単に取りかえることはできない
…
シティズンシップの論理は、もしかしたら差別をしているかもしれないとみずからに問いなおすこと
差別とは何か、と考えるきっかけを失わせている。
② 〈道徳としての「現代的レイシズム」〉
道徳的な判断において人間はまず直観にしたがって判断し、そのあとに論理的に…思考を働かせ…
→(「「直観」による道徳的判断は、人類が共同体を形成し維持するなかで進化的に獲得された」)
…
「現代的レイシズム」は差別がすでに解決されているとみなしたうえで、黒人や在日朝鮮人にたいする
積極的是正措置を特権として彼らから剥奪しようとする
→(「「現代的レイシズム」とは、差別の見かけをとらない差別でありながら、ひとつの道徳である
といえるだろう。…
「アイデンティティ」と「シティズンシップ」の論理の対立も、道徳と道徳の対立と捉えなおす
ことができる。
③ 〈差別的な言説はしばしば合理的である〉
(著者は、話題にもなった東京医科大学の入学試験における性別による差別《女性差別》を挙げ
大学側の判断は《差別であっても》合理的だとした根拠に言及する。
「女性の入学者数を制限することよりも、医療現場の過酷な労働環境が改善されるべきだが、
両者のコストを天秤にかけて、前者(女性入学者数の操作)のほうが効率的であると判断した…」
続けて言う。
当時の差別された女性たちは差別されることによって「「市民」としての「尊厳」が蔑ろにされ」
そして問題なのは「「コスト」と「便益」を対比させる典型的なロジック」だと言う)
科学的なエビデンスによれば、男女には置き換え不可能な差異がある。
(この事実は、「アイデンティティ」と「シティズンシップ」の対立ということを考えるとき、
「シティズンシップ」の「シティズン」、つまり「「市民」という概念が「空虚」である」かに
気づかせる)
…
④ 〈差別は差異を根拠とするのか〉
さまざまなアイデンティティを複数あわせ持った個人、…「多様な「差異」」がある(事実)
…
驚くべきことは、いまや「能力」や「身体的条件」等の測定が困難でなくなり、(③の東京医大の
入学試験での女性差別のように)明示的「合理的」であり、「効率的」であるという理由から、
いまだに「性別」や「人種」が「能力」や「身体的条件」の指標として利用されていること
…
統治功利主義(多数の利益の「便益」ためには、「コスト」がかかるので少数の利益は
配慮されないという考え)の台頭…
(障害者の「便益」ために「障害者用トイレ」「エレベーター」などを設置するのは「コスト」が
かかるのでしない、駅ホームと線路の境に安全という「便益」のために自動開閉柵を設置するのも
「コスト」がかかるのでしない)

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① 〈アイデンティティからシティズンシップへ〉
(ネット検索すると「アイデンティティ」は「自分自身を認識する「自己同一性」「正体」
「身元」などを意味する言葉」、「シティズンシップ」は「市民権や市民性、社会参加、
社会形成などの意味」とありました。
差別を「アイデンティティ」、「シティズンシップ」という二つの視点から、
ましてや「アイ…からシティズン…へ」という歴史、時間的な変化の中で
考えたことなかったので、とても新鮮に感じた。
(社会に存在する数多の差別は複雑だ。
二つの視点から捉えてこそ理解できるものであることを教えられた)
アイデンティティとは、要は「自分は自分であること」。
(自分個人の論理だ。といっても、わかったようでわからない言い方。
ともかく自分個人に関することすべて)
シティズンシップとは、社会の中の市民の論理。
(みんなに当てはまること)

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①を、②の〈道徳としての「現代的レイシズム」〉、③の〈差別的な言説は…
合理的である〉ということと合わせて考えるとき、
「シティズンシップの論理はもしかしたら差別をしているかもしれないと
みずからに問いなおすこと、差別とは何か、と考えるきっかけを失わせている」
がとても強く胸に響いた。
多くの人々は、「シティズンシップ」の方が「アイデンティティ」より合理的、
正しい、道徳的だと「正義の論理」を振りかざす。
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② 〈道徳としての「現代的レイシズム」〉
それは、「差別がすでに解決されているとみなしたうえで、黒人や在日朝鮮人に
たいする積極的是正措置を特権として彼らから剥奪しようとする」
「差別の見かけをとらない差別でありながら、ひとつの道徳」と著者は述べる。
(私は「現代的レイシズム」という考えをしたこともなかったし、道徳という視点から差別を見た
こともなかったので、この部分もすごく印象的だった。
日本はアメリカのように黒人が奴隷として売られてくるという歴史はなかったので、
黒人差別は見られないが、あからさまな奴隷ではないけれど「強制連行」で無理やり連れてこられ、
半分奴隷のよう働かせられ、扱われた朝鮮の人たちがいる。
その人たちの子孫の代になった現代も、差別はあった方が都合がいい連中がいっぱいいる。
それでも現代日本の社会は民主主義になったので、長い間、生活のさまざまな面で差別的扱いによる
被害を受けていた在日朝鮮人に、国はこれまでの償いのつもりも含め「積極的是正措置」をとった。
(国内の身分差別「部落差別」への公的補償政策の「同和対策」と同じ)
ところが、「在特会」《在日特権を許さない市民の会》の市民たちは「言論・表現の自由」という
《シティズンシップの一つ》を錦の旗かのように、在日の朝鮮の人たちに聞くに堪えない言葉の
暴力を浴びせかける。
《デモは民主主義を標榜するものだけかと思っていたので、「ヘイトスピーチ」には驚いた》
「差別の見かけをとらない差別」「ひとつの道徳《シティズンシップ》」に深くうなずいた)

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③ 〈差別的な言説はしばしば合理的である〉
④ 〈差別は差異を根拠とするのか〉
現代では、あからさまな(ということは非合理的な、非条理な)差別はできなく
なった。
(差別の理由、根拠が多くの人に納得されない)
しかし、性別差、個人個人の能力差、障害の有無などのように客観的に存在
する違い、「差異」は「しばしば合理的」とされ、差別が正当化される。
そのことによって「「市民」としての「尊厳」が蔑ろにされ」ているにも関わらず…
そのときの差別の論理は、「多数の利益の「便益」ためには、「コスト」がかかる
ので少数の利益は配慮されない」というものだ。
「差別の見かけをとらない差別」、「統治合理主義」。
正直、反感を抱く前に、「参ったな…」とヘンに感心している自分を感じた。
これでは世の中から差別がなくなることはないだろうと悲観したけれど、
いや減らすことはできると思い直した。
(座れて用を足せる洋式トイレ、障害者用《といえど誰が利用してもかまわない》トイレ、
駅などのエレベーターを使うたびにありがたいと感じる)

(自分なりの)結論。
ともかく大事なことは、差別云々ではなく、その人が人間として尊重されている
こと。
自分のこととして言えば、(たとえ社会に重んじられているとは感じられなくても)
自分としては精いっぱい、人間としての尊厳、誇りを持って(感じて)生きよう
ということ。
(人としての尊厳《「誇り」「プライド}》とは、「自由」だとか「平等」だとか「愛」などではない。
自分が人としての尊重されているか、いないか《踏み躙られているか》はわかるはず。
感じるはず。感じる自分は信じていい)

顔じゅうを 蒲公英にして 笑うなり 橋 閒石